2013年9月20日金曜日

「Nコン!」第8コーラス目「発声!」

読むための所要時間:約5分

「じゃあ、腹式呼吸ってできる?」
「腹式呼吸って、なんですか?」
 『できるわよね?』と言おうとしていた現(うつつ)であったが、はっきりと否定され、がっかりだった。しょっぱなからこれでは先が思いやられる。実は三人が三人ともにド素人だったわけだ。あれだけ大騒ぎして合唱部を創るとしてきた煌輝(きらめき)でさえ、合唱、コーラスの基本中の基本である腹式呼吸さえ知らないのだというのだから。
「いい? 合唱の基本はまずは発声。声をどうやって出すかによって歌が全然変わるから」
 とは言っても、現自身きちんと指導を受けたのは、2年前に三越先生が亡くなるまでの期間だけ。人に指導できるほどのものはないと自分では思っているが、少なくとも、全くの素人相手であれば、自分の方が遙かに知識はあるはず。三越先生がどう言っていたのかを思い出しながら、話を続ける。
「腹式呼吸は、お腹から声を出すの。肺呼吸で声を出すには限界があるから。普通に、『あー』って出すのと、お腹に力を入れて『あー』って発声するのと、ほら、全然違うでしょ?」
 実際に実演してみせる。
「ぜんぜん違いますね!」
 明らかに後者の方が大きいし、迫力があるのが真湖達にも分かる。
「あなたたちもやってごらん?」
 同じように、『あー』と、3人揃って声を出してみる。が、当然のことながら、全くバラバラで現のような声は出ない。その時、現の目が瞬いた。
「エンリコくんだっけ? ちょっと、もう一回声出してもらえる? 同じ感じでいいから」
「はい? えっと。『あー』」
「じゃあ、わたしの音に合わせて、『あー』」
「はい。『あー』」
「もっと高く。『あー』」
 何度も何度も音程を上げていく。どんどんと上がっていき、現が苦しくなってきても、翔の声はまだまだ上がる。
「ちょっと、キミって、声変わりしてないの?」
「はい、まだ変声期はきてないみたいですね」
 確かに、彼の声は前に会った時から高いと思ってはいたが、ここまでとは。現は比較的女子としては低めの声なので、アルトパートではあるのだが、女子より高い声が出るのには驚いた。小学生の時にはクラスに1名程度男子でも高い声の子はいたが、中学生になってもとは。
 逆に、現は今度は低い声を試してみた。今度は翔の方が先に声が出なくなった。完全にソプラノ域である。変声期を過ぎていないということならば、いわゆるボーイソプラノだ。良く見ると、彼の喉の凹凸は同年齢と比較しても平坦であるし、ハーフの割には顔も童顔っぽい。他の男子に比べて成長が遅いのだろうか。彼の問題はいつ変声期を迎えるかだが、当座のところは女子パートを担当させることでこちらとしては問題はないだろう。
「じゃあ、あななたちは?」
 合わせて、真湖と乃愛琉にも声出しさせてみる。真湖はソプラノ域、乃愛琉は若干アルト向きのようだった。
 現在合唱部入部希望者は全部で10名。女子が現、如月、外園、真湖、乃愛琉の5名、男子が栗花落、保家、射原兄弟の4名にエンリコの予定だったのだが、男子パート4対女性パート6になってしまう。5対5を予想していたので、現には若干の失望感が漂った。
 ただ、現状だけの話としては、1年生3人ともに女子パートの練習だけで済むのだから、考えようによっては良かったとも言える。来週の勧誘会は、校歌で、混声二部合唱なので問題はなさそうだ。あとは勧誘で男子も同じように集まってくれるかどうかだ。概ね全国的にみて、合唱部は男子が集まりにくい傾向にある。
「じゃあ、思いっきり、お腹に力を入れて、大声を出してみて」
 現がそう指示すると、三者三様に大声を張り上げる。
「はいはい、それじゃ、ただのがなり声。しかも、お腹に力が入ってない!」
 しばらく考え込む現。三越先生に指導された時のことを思い出す。
「そしたらね、三人とも、そこに仰向けに寝っ転がって。それから、足をちょっとだけ上げて。5センチくらい浮かせる感じで……本当はそのまま90度上げるといいんだけ……ど」
 現の言う通りに、三人はその場に寝転がり足を上げる。が、真湖がその言葉通りに、ひょいと足を天井めがけて上げようとした。
「真湖ちゃん!」
 乃愛琉が気がついてすぐにその足を戻そうとしたが、時遅く、すっかりスカートがまくれてしまった。慌てて足を下ろさせる乃愛琉。栗花落の目を押さえる現。何事かと、驚いて起き上がる翔。ほんの少しの間時間が止まった。
「あ、ごめーん、スカートだったの忘れてたー」
 小学校の時は、特別な行事の時以外はほとんどジャージかパンツだったこともあって、いまだに動作がやんちゃな真湖であった。頭を掻きながら乃愛琉に謝る。
「縞パン……」
 すぱこーん!
 栗花落の言葉に、現のビンタが飛んだ。

「そしたら、明日から1年生は猛特訓だからね! 必ずジャージを持ってくること。それから家に帰ったら、さっきの練習を最低一時間はやること。いいわね?」
 現は、三越先生から教わった、腹式呼吸の練習方法を3人に見よう見まねで教え、帰宅後も復習するようにさせることにした。校歌については、2年、3年は間違いなく歌えるので、1年生3人にどこまで教え込むかが鍵となる。焼き付け刃になるのは致し方ないとしても、まずは声量の問題だけはクリアしておきたいと考えたのだ。かといって、今から腹筋を鍛えるとか、体力をつけるとかの長期課題は難しく、一番効果があるのが、腹式呼吸を「なんちゃって」でもいいから覚えさせることを最優先にすることにした。
「あと、これ、校歌を録音したCD。それぞれ貸してあげるから、明日までにコピーするかして、自分で毎日聴けるようにしてちょうだい」
 『石見沢市立西光中学校歌』と手書きされたCD-Rを三人に手渡した。
「うち、パソコンとかないんですよ」
 翔が残念そうに言い、真湖も頷いて、乃愛琉の方を見る。
「じゃあ、わたしがコピーしてあげる。うち、パソコンがあるから」
 乃愛琉がそう言って、現が差し出したCDの内、一枚だけを受け取った。
「CDプレイヤーとかもないの?」
「ないですね」
「あたしのとこは、プレイヤーはあったと思います」
 確か、真湖の両親の部屋に古いプレーヤーを置いていた記憶がある。
「じゃあ、煌輝さんには、これ貸してあげる。来週の発表まで持ってていいわよ」
「ありがとうございます」
「エンリコくんは、MP3プレーヤーとか、何かある?」
 乃愛琉がCDを鞄にしまいながら翔に尋ねる。
「ないなぁ」
 今時、音楽プレーヤーを持ってない中学生がいた。
「FSFとか、携帯ゲーム機とかは?」
「ゲームもやらないしなぁ」
「じゃあ、わたしのお兄ちゃんのiFodで使ってないのがあったはずだから、それ貸してあげる。シャッフルだけど、一曲だけなら、問題ないわよね?」
「シャッフル? よくわかんないけど、聴ければいいんじゃないかな? ありがとう」
「ううん」
 見た目だけだと、流行に聡そうな翔だったが、音楽プレイヤーどころか携帯ゲームも持っていないというのは珍しかった。真湖たちのクラスメートも、全員なんらかの携帯ゲームは持っていたはずだ。真湖も、『プリティチュア』のFSFを持っているので、乃愛琉からデータをもらえば、それで聴こうと思っていた。
「本当は登下校時にも聴いて欲しいくらいだけど、学校に持ち込みできないから、それは仕方ないわね」
 当然学校は携帯、ゲーム、その他の電子機器は持ち込み禁止である。チェックはさほど厳しくはないが、見つかれば没収だった。
「にしても、さっきの校長先生、あっさり部の創設認めてくれましたよね? あんなんだったら、最初からOKしてくれればいいのに」
 乃愛琉に持ってきてもらった自分の鞄を持ちながら、真湖が愚痴をこぼした。
「そうは言うけど……」
 と、栗花落が言いかけたが、現はなんでもないと打ち消した。実のことを言うと、昨日校長への直談判に2時間はかけた。現がかなり粘ったのを彼氏である栗花落が隣でずっと見ていたのだ。その苦労も知らないで、と内心では思うけれど、そう言ったことを表立って言わない現のことを栗花落は改めて好きだなと思った。
 ただ、校長が彼らの要求を飲んだ時も、奥歯に何か挟まっているような言い方をしていたのを栗花落は見ていた。合唱部創部には校長や教職員の事情も何かしらあるのかも知れないとは思わないでもない。けれど、とりあえず来週の勧誘会で10名集めることができれば、創部との約束を取り付けたことは大きい。
「じゃあ、また明日」
「ありがとうございました」
 3人が音楽室を出ていく。と、また真湖が扉から顔を出して、
「現先輩、本当にありがとうございました!」
 と、額が膝につくかと思われるくらい、深いお辞儀をした。ポニーテールが床についた。
「明日から頑張ってね」
 と返す。

「現先輩って、いい人だよねー!?」
 帰り道、真湖が陽気に叫んだ。
「そうだね。美人だしね」
「あら、エンリコくん、もう心変わり?」
「ううん。俺は真湖ちゃん一途だからね。あくまでも一般論」
 乃愛琉のからかいにも全く動じない翔。
 確かに、美人か美人でないかというと、現は美人ではあると言えるくらい、顔立ちは整っているし、田舎の中学生にしては垢抜けたところがある。クール系を少し通り越して、後輩達からすると少し怖いイメージを感じ取るかも知れない。
 それより、アンバランスなのは彼氏の方で、見るからに優柔不断で優男の栗花落が何故彼氏なのかが乃愛琉には不思議だった。真湖はあんまりそういうところに頓着しないので、多分自分だけそう感じているのかも知れないなとは思いつつ。
「ねぇ、エンリコくんは真湖ちゃんのどこが好きなの?」
「乃愛琉、そういうの止めようよー」
 突然自分に振られて、あわあわする真湖。
「んー? 縞パンなとこ?」
 一気に真湖の顔が赤くなる。
「み、見てたの? ばかばかばか!」
「だって、あれは、事故でしょ! あれだけめくれたら、見えるってば。」
 鞄で翔を叩くが、翔もあえて逃げはしない。
 今朝下着を選んだ時に、春先に母に買ってもらった新しいピンクの縞模様のを選んでいた。小学校の頃から履いているキャラクターもののじゃなくてよかったと今更ながらに安堵していたとかは内緒の話。
「ま、まあ、それは冗談として、真湖ちゃん可愛いじゃん。あ、もちろん、乃愛琉ちゃんも可愛いけど、真湖ちゃんは、積極的っていうのかな。思いっきりがいいっていうのかな。そういうとこが好き」
 さすが自分へのフォローも忘れずに加えるところが日本人離れしていると乃愛琉は思う。しかも、好きとかを恥ずかしげもなく言うのは相変わらずというか。
 真湖も自分も、美人とは言えないが、まあ、なんとか『可愛い』部類かとは思う。真湖本人はそばかすを気にしているけれど、それを除けば目鼻立ちはいい。女の子同士ではあるけれど、時々抱きつきたくなるオーラを持っている。それは、誰に対してでも発揮されていて、いつの間にか真湖が人の輪の中心にいることが多いのは、そのせいなのだろう。
「乃愛琉もそういうのやめようよー。もう」
 今度は、乃愛琉の陰に隠れる真湖だった。翔にそういうことを言われると、なんだか恥ずかしい。自分は全く可愛いとも思ってないし、むしろ、乃愛琉の方がずっと可愛いと思っている。乃愛琉はクラスではあまり目立つタイプではないけれど、男子に好かれるタイプだというのは真湖が勝手に思っていることだが、顔もそうだけれど、優しいし、思いやりがあるし、よく教科書に載っている『昔の貞淑な妻』にはぴったりだと思っている。
「じゃ、また明日ね!」
 真湖は、翔との分かれ道が見えてきた辺りで、乃愛琉の手を引っ張って、走り出した。完全に照れ隠しである。けれど、翔は微笑みで見送る。
「うん、じゃあまた明日ね!」

 帰宅後、3人は現に教わった通りに、発声練習を始めた。
 腹式呼吸を意識するためには、まず腹筋に力を入れることを意識する必要がある。よく、「腹で息をする」などと表現されることがあるが、実際に腹で息が吸えるわけではなく、そういうイメージを持つというだけの話である。ただ、全くの素人の場合、そのイメージは付きづらく、むしろ変な癖をつけることになってしまう。一番意識しやすい方法として、亡き三越先生が指導していたのが、彼らに教えたように、寝た状態で足を軽く上げならが発声をする方法だった。これだと、無理なく自然に腹筋に力が入り、意識をしやすい上、同時に腹筋を鍛えることができる。
「あー」
 真湖は現に言われた通りに自室で声を上げる。足を5センチくらい上げておくときついので、最初は足を上げ下げする方法をと薦められたので、足をあげては下げ、下げては上げる。足を曲げないようにと注意された。これを10セット。
「あたたた」
 単純に腹筋体操を10回やるよりキツイ。
「明日、筋肉痛になっちゃうよー」
 練習初日から、前途多難な真湖であった。

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