2014年10月27日月曜日

「Nコン!」第18コーラス目「衝撃!」

 新栄中学の校門に到達する頃、心地よい春風にのって、かすかに歌声が聞こえてきた。合唱部の歌声なのだろうことは真湖にも分かった。いよいよ、全国レベルの歌が聞けると思うと、否が応でも緊張してきた。
 雅がインターホンで職員室に連絡すると、扉が開いた。
「君たちはここで待ってて」
 皆にそう言って、一旦先に玄関に入って行った。
 その頃には合唱部の歌声が消えていた。休憩時間なのだろうか。
「なんか緊張してきた」
「真湖ちゃんはこないだっからずっと緊張しっぱなしだね」
 翔がいつもより若干柔らかめな笑顔でそう言った。
「だって、全国レベルなんだよ!しかも、北海道の。そ、それに、ずっとってことはないよ、さすがに新歓の時は緊張したけど……さ」
「適度な緊張は交感神経を活発にさせるからいいけど、過度な緊張は発声の妨げになるから、煌輝(きらめき)さんは色々慣れておかなきゃダメだね」
 栗花落(つゆり)はそう言って笑った。
「こうかん……交換神経ですか」
 真湖はしばらく誤解したままだった。
「全国レベル、全国レベル……」
 真湖が念仏のように呟いた。
「にしても、全国レベルって、どんなんだろうね」
 神宮が気のなさそうに言った。
「神宮先輩は見たことないんですか?」
 乃愛琉(のえる)が聞く。
「去年はNコン地区大会敗退だったからね。一昨年は参加してないし。あれ、一昨年って、全道行ったんだっけ?」
「行ってません。銀賞止まり」
 現(うつつ)が残念そうに答える。
「それでも、銀賞は取ったんですね」
 以前に真湖とネットで調べていたので知ってはいたが、乃愛琉はわざと明るめの声を出す。少なくとも賞をとっているであれば、それはそれで素晴らしいことだ。
「去年一昨年は緑中が全道。だからわたしも緑中を含めなければ、まだ全道レベルの学校でさえ、直接は拝んだことないのよね」
「全国って言ったら、まるっきり違うんだろうな」
 栗花落が厳しい顔をした。
「練習も厳しいのかな? 隊列組だりとかして?」
 神宮の想像は大体斜め上。
「わたしもテレビとか動画サイトとかでしか観たことないけど、あのハーモニーっていうか、一致感はすごいよね。同じ中学生とは思えない」
「田舎から来たって、バカにされないかな」
「バカにされても仕方ないわね。全道にさえ出てない学校のことなんて」
 栗花落の心配に現は自虐的にそう言った。
「なんか、恐そう」
 乃愛琉がそう呟く。
「雅先生がどういう交渉したかは分からないけど、見学許可するってあたりで、うちらのことどう見てるかなんて明白でしょ」
「どういう意味ですか?」
 真湖は不思議な顔をした。
「眼中にないってこと。つまりライバルとしては見てないってこと。そうじゃなかったら、練習風景見せたりしないでしょ」
 現がけんもほろろにそう言った。


「お待たせ」
 しばらくして、雅が戻ってきた。
「見学オッケー。但し、そんなに長い時間じゃないから、しっかり聴いておくんだよ」
「はい!」
 雅を先頭に音楽室に入ると、すでに合唱部の生徒たちはきっちりと整列していた。35、6人はいるだろうか。ようやく20人を越えたばかりの西光中とは大差がある。
「石見沢西光中の合唱部の皆さんです。今日は私たちの練習を見学されたいそうです。はい、挨拶」
 指導の先生がそう言うと、
「よろしくお願いします」
 と、一同に揃って挨拶した。こんな挨拶でさえ、息が揃っている。
「あ、こちらこそ……よろしくお願いします」
 対して、真湖たちはてんでばらばらの挨拶で、さらに大きな差を見せつけられた。
「では、1曲やりましょうか」
 すでに練習曲は決まっているらしく、指導教師がタクトを振ると、伴奏者がピアノを弾き始めた。
 真湖たちは、その場で黙って聴き始めた。
 曲は数年前にNコンの課題曲になった「虹」。森山直太朗がNコンのために書き下ろした曲であり、今でも人気の高い合唱曲の一つである。
 射原兄弟のどっちかが好きな曲に挙げていたなと、真湖は思い出した。


 彼らの合唱は、発声、音程、ハーモニー、どれをとっても素晴らしかった。抑揚、強弱の付け方、感情表現、歌詞に対する思いの深さ。それを聴く者に伝えようとする姿勢。同じ中学生とは思えない。
 このままNコンに出ても優勝するのではないかというくらいの完成度だと、現でさえも感じた。テレビやネットを通して聴くのとは全く次元の違う世界。ましてやまだ4月。少なくとも去年主力だった3年生はいない、もしかすると新入生も含まれているかも知れないのにだ。現は完全にノックアウトされていた。
「こんなのに勝てるはずない」
 合唱の間に何度この台詞を言おうと思ったか。しかし、雅のおかげでせっかく見学が許されたのに、そんな愚痴をここで言うべきではないと思うのと同時に、やっぱり負けたくはないという気持ちも相まって、への字口は開くことはなかった。


 合唱が終わると、真湖たち西光中合唱部全員が一斉に拍手をした。新栄中合唱部はそれに会釈で応える。その姿勢さえ、ほぼ同時に同じ角度に保たれている。
「いやぁ、素晴らしい。さすが常勝校」
 雅が賛辞の言葉を述べた。
「お恥ずかしい。まだまだこれからですわ。なんとか来年のコンクール目指してまとめていきたいとこなんですけど」
 指揮をしていた担当の指導教師が頭を下げた。その物言いに真湖は何かひっかかった。
「色々と気になる点は多々ありますよ。雅先輩ならお気づきかとは思いますが」
 それから、生徒達に気遣うように小さい声で、そっと雅に囁く。
「とんでもない。この時期にこれだけの完成度なら申し分ないですよ」
 雅は新栄中の生徒に聞こえるように大仰に言った。
「良いものを聴かせてもらいました。
 みなさん、ありがとうございました」
 雅は新栄中の生徒に向かって頭を下げた。


 見学は1曲だけで終わった。雅を先輩と呼んだ指導教師は慰留をしたが、雅が辞したのだ。
 両校共に深々と挨拶をしてから、真湖たちは音楽室を出た。
 音楽室を出て、玄関先に向かうまでの間、皆一同に無言だった。
 とにかくレベルの差を見せつけられて落ち込む現と栗花落。初めての全国レベルを聴けて緊張が未だ解けない1年生3人。そして、何を考えているのか分からないけれど無言の神宮。
「さすがに全国レベルですよね、上手だったー」
 ようやく口を開いたのは真湖だった。
「あれでも、2軍なんだよ」
 雅は淡々とそう言った。
「ふえぇ? 2軍? って、なんですか?」
 真湖は変な声を上げた。さっき感じた違和感はここだったのだ。
「あれは、ほとんどが2年生で、実際に『今年』全国に行くメンバーはここでは練習しないんだ」
「え?」
「3年生主体の1軍の精鋭はまた別メニュー組まれてて、今日ここには来ない。時々2軍の指導とかするのに来る程度だと」
「Nコンは出場人数35人までって決まってるからね。大所帯の部だと、2軍制度があったって噂は聞いたことあるけど、今時まだあるなんて」
 栗花落が補足しながらも、驚きを隠せない。
「新栄中学は全校生徒900人を超す札幌でも1、2位を争うマンモス校でね、さらに近年の合唱部の活躍から、合唱好きな子が市内各地から集まるらしい。引っ越ししてまで入学する子もいるって」
「部員が多いってのは聞いてましたけど、そこまでとは」
 さすがの現も面食らったようだ。
「じゃあ、1年生はどこにいるんですか?」
「あそこだよ」
 雅が、グランドでランニングしている生徒達を指した。
「入部したての1年生は基礎体力から。グランド10周に、ウサギ跳び、腹筋100回やったあと、発声練習で始終する。楽譜持たされるのだって、早くて今年の終わりくらいじゃないか。
 さっきの2年生もようやく歌い始めて半年満たないはずだよ」
 そんな説明も耳にしないまま、真湖は玄関を出て、そちらに向かって走り出した。
「あ、煌輝さん、待って!」
 雅の制止も聞かずに真湖は一直線に1年生の団体に向かって走った。
「あのー、すみません!」
 突然真湖に呼び止められた1年生数名が何事かと振り向いた。
「はい? なんでしょう?」
 うち、一人が返事した。
「あたし、煌輝真湖っていいます。石見沢西光中の合唱部に入部したばかりの1年生です。今日はみなさんの先輩方の練習を見学させてもらったんです」
「は、はあ。先輩って、2軍のですか?」
「はい! とっても上手ってびっくりしました!」
「石見沢って……ええ、わざわざ石見沢から?
 うん、先輩たち上手。わたしも早く先輩たちみたいに歌いんだけど」
「みなさんは、歌わないんですか?」
「わたしたちはまだ入部したばかりだからね。こうして、基礎練習」
「そんなんで楽しいの?」
「そりゃ、楽しくはないけど、早く1軍に入ってNコンに出るって目標があるから、頑張れるし」
 その生徒は笑顔でそう言った。
「こらぁ、そこ何やってる!?」
 グランドの向こうで、教師が怒鳴った。彼らの指導教師らしい。
「あ、ごめんね、行かなきゃ。じゃ、どこかで会ったら」
 その子が差し伸べた手を真湖は握手で返した。

「こらこら、勝手にその辺動き回らない」
 ようやく追いついた雅が真湖を取り押さえた。
「すみません、お邪魔しました」
 頭をペコペコ下げながら、真湖を連れてグランドを後にしようとした時、
「あれぇ、雅じゃねぇか?」
 さっき怒鳴った指導教師が雅の顔を見て、そう言った。雅は一瞬ちっと舌打ちをした。
「あ、佐伯先輩、どうもでした」
 雅は深々とその教師に頭を下げた。
「どした? 珍しいなこんなとこに……それ、誰? もしかして、合唱部の指導なんかしてるわけじゃないよな?」
 雅を追うように現達が駆け寄ってきたを見て、佐伯という教師は何か合点がいったらしい。
「ほう。どこの学校?」
「石見沢西光中です」
「石見沢? また随分田舎に引っ込んだもんだな」
「故郷ですから」
「そっか。じゃあ、あれか、三越先生のとこか?」
「はい、そうです」
 明らかに二人の間には何かの確執があることは誰が見ても明らかだった。
「まあ、遺骨でも拾ってやるんだな。旧石器時代のな。あはははは」
 明らかに失礼な物言いだったが、雅は何も口答えはしなかった。
「じゃ、失礼します」
 雅は佐伯という教師に頭を下げて、真湖を連れてそのまま踵を返した。
「みんな、帰るよ」
 真湖の手を引いてグランドを出る雅に一同は無言で着いていった。


「やっぱり、人数が多くないとダメなんですかね?」
 帰り道、最初に口を開いたのは乃愛琉だった。
「そんなことはないよ。例えば、6人で県大会金賞だった学校もあったくらいだからね」
 栗花落(つゆり)は意外に物知りだなと乃愛琉は思った。
「6人でですか?」
「まあ、女子だけの合唱部だったってのも特殊ではあるけど。とにかく人数は絶対条件ではないってこと」
「やっぱり、練習量よね」
 現がさらりと言った。
「日曜日だってこれだけ練習してるんだし。さっきの2軍の合唱聴いたって、去年から死にものぐるいで練習してきたって感じ、はっきり分かるもの」
「練習しても、下手な奴は下手だけどな」
 神宮が茶々を入れる。
「神宮くんみたいに才能ある人には分からないわよ。そういう、神宮くんだって、新栄中にいたら、今だったら、多分中の上くらいだと思うわ」
「うん、まあ分かってるけど」
 さすがの神宮にとっても今回の遠征は効いてはいたらしい。若干殊勝な言い方だった。
 皆がそんな感想を述べ合っている間も、真湖と雅は始終黙っていた。何故か流れで手を繋いだままなのも気づいていない様子。
「真湖ちゃん大丈夫?」
 あまり長い時間二人が黙っているので、乃愛琉が心配になって真湖に声をかけた。
「え? ああ、うん。大丈夫」
 気がつけばもう地下鉄の駅まで歩いてきてしまっていた。そんなに長い時間だったのか。
「あ、ごめん、もういいよな」
 雅はそう言って、ようやく真湖の手を離した。
「これからどうします? もし良かったら、ボクの知り合いのところで昼ご飯でも食べに行きませんか?」
 神宮がそう提案すると、皆も同意した。すでに時計は2時を過ぎようとしていた。


 一同はそのまま地下鉄に乗って、さっぽろ駅に向かった。
 途中、元気のない真湖に乃愛琉が気がついた。
「真湖ちゃん、大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫」
 心ここにあらずな表情で答える真湖。
「ボクが言うのもなんだけど、真湖ちゃん、元気ないよ」
 翔も心配だったのか、そう声を掛けたが、当人も相変わらずの雰囲気で、二人ともにどんよりとしていた。真湖は翔に言葉も返せずにいた。
 さすがにあれだけの実力を見せつけられたのだから、仕方ないかとも乃愛琉は思った。全国レベルのハードルの高さは乃愛琉にとっても予想以上だった。
 同じく、現や栗花落もあまり表情が冴えない。雅が気にして現に声を掛けた。
「現さんも、かなりショックだったかい?」
「ですね」
 現は言葉少なく言った。
「煌輝さんたちに良い薬になればと思ってたんだけど、それ以上に君たちにも衝撃が強すぎたかな?」
 横で栗花落が苦笑いした。
「いえ、むしろ現実を見せてもらって、具体的な目標が見えた分、やりやすいです」
「君も、思った以上に強がりだね。でも、部長はそうじゃなくっちゃ」
 雅はくすりと笑った。
「まだ始まったばかりですし、ここで諦めてちゃ、ここまで苦労した甲斐がありませんから」
 現はちょっと無理して微笑みを返した。そりゃそうだと雅も頷いた。


 神宮が案内したのは、札幌駅前のホテルの中のレストランだった。すでにお昼休みらしく、扉は閉まっていたが、神宮が声を掛けると中から従業員らしき人が扉を開けた。
「え、ここ……が、お知り合いの?」
 乃愛琉はそんな神宮を見て驚いた。どうみても高級そうなレストランだった。
「うちの親戚がやってるんですよ」
「このレストランですか!?」
「いや、このホテルを、だよ」
 あっさりと言う神宮に一同は唖然とした。札幌駅前の高層ビルに入ったそのホテルは30階は超す高さだろうか。少なくとも石見沢にはこの高さの建物はない。
「元々地元の会社が運営していたんだけど、10年くらい前に経営難で倒産したらしく、ボクの叔父の会社が買ったんだってさ」
 気のない返事で神宮は答えた。
「すごいですね、ホテル経営とか」
 雅が思わず敬語になった。
「ボクがやってるわけではないんで……あはは」
 神宮が謙遜なのかどうか判断つかない言い方をした。
「あ、来てますか?」
 神宮が従業員に声を掛けると、「はい」と返事をして、皆を奥の部屋に誘導した。従業員が奥の部屋を開けると、中から一人の女の子が飛び出して来た。
「知毅(ともき)お兄様!」
 飛び出してきた女の子は、真湖たちと同じくらいの年頃だろうか。ドレスのようなひらひらの洋服を着ている。一見すると、ゴスロリコスプレに見えなくもない。
「ちーちゃん。久しぶり」
 神宮は飛び出して来たその子をそのままだっこして受け止めた。まるでそれはお姫様を迎える王子様の様で。乃愛琉はその様子を見て面食らった。
「あ、皆さん、紹介します。ボクの従兄妹(いとこ)で、神宮千衣子(じんぐう ちいこ)っていいます」
「神宮千衣子です、よろしくー」
 さすがに札幌の子。垢抜けた感じの子だった。神宮にだっこされたまま、満面の笑顔で皆に挨拶した。
「お兄様、新栄中見学されたんですって?」
「行ってきたよ。うん、上手かった」
「へえ、そうなんだぁ。実はわたしもね、合唱部入ったのよ?」
「へえ、女子校にも合唱部なんてあるんだ?」
「ええ、中高合同ですけどね。中等部は今年からNコンも出ることにしたのよ」
 千衣子はそう言って、真湖達に視線を送った。真湖と乃愛琉はきょとんとした。
「だから、お兄様も頑張って北海道ブロックに出てきてくださいませ」
「へえ。札幌地区で金賞取るつもりかい?」
「もちろん」
 千衣子は自信満々の表情でそう答えた。
「まあ、いいや。皆さん、どうぞ、お入りください。自分の家だと思って寛いで」
 奥の部屋に通されると、中はVIPルームらしく、シャンデリアに飾られたヨーロッパ風の小部屋だった。ロココ調の内装と家具が千衣子のドレスを違和感なくさせていた。むしろ、制服の真湖達の方が浮いていた。
 自分の家だと思うにはかなり無理があるなと真湖も乃愛琉も思った。
「どうぞ」
 しばらくして、給仕のスタッフが刺繍の入ったテーブルクロスの上に重箱に入ったお弁当を持ってきた。中を開くと、洋食のセットだったが、気を遣ってなのか、お箸で食べられるメニューだった。真湖はほっとため息をついて安心した。
「みなさん、知毅お兄様をよろしくお願いしますね」
 会食の間、千衣子は何度もそう言った。その度に、真湖と乃愛琉への牽制にも似た目線を送り続けていた。
 会食は1時間程度で終わった。部屋の雰囲気に圧倒された一同は最初は無口で過ごしたが、次第に慣れてきたのか、神宮と千衣子の会話に混じっていった。千衣子が真湖たちと同じ中一であること、札幌でもお嬢様校と名高い中高一貫の女子校に通っていること、千衣子も生まれは石見沢であったが、両親の仕事の都合で札幌に移り住んだことなどを聞いた。
「では、次にお会いするのは、Nコンの会場ですわね」
 真湖たち合唱部の一同にそう言って、千衣子は最後に神宮に向かって、
「お兄様は次はいつ札幌にいらしていただけるの?」
「どうかなぁ。ボクも今年受験生だからね。去年までみたいに、しょっちゅうって訳にいかないかも」
「千衣子寂しいですわ。じゃあ、今度わたしが石見沢に遊びに参りますわ!」
 千衣子は手をぽむと叩いて、そう言った。どうやらNコン前にどこかで会う予感をもった真湖であった。


 一行はそのままJRで石見沢に戻る。石見沢駅に着いた頃にはすでに薄暮の時間だった。
「じゃあ、今日はお疲れ様。また明日」
 雅の号令でそこで解散した。
「あ、あれ?」
 雅、現達と別れた直後、真湖が変な声を上げた。乃愛琉と翔が真湖の指した方向を見ると、見かけたことのある顔が。
 その男子生徒三人は、間違いなく公園で真湖に因縁をつけてきた、あの三人だった。特徴のある顔立ちなので、乃愛琉も翔もはっきりと判別できた。
「あ、あの人たち……。でも、変じゃない?あの制服、うちの中学のじゃないよ。多分……高校の制服……石農(せきのう)のじゃないかな」
「え? なんで?」
 真湖たちは頭を捻った。

2014年10月20日月曜日

「Nコン!」第17コーラス目「逢引!」

 日曜日。真湖たちは、午前9時半石見沢発札幌行きの区間快速「いしかりライナー」に乗っていた。真湖の隣には翔、向かいには乃愛琉(のえる)と神宮先輩。
 神宮先輩との約束通りのダブルデートである。
 ところが、隣のボックスには、雅(みやび)、現(うつつ)、栗花落(つゆり)と何故か真湖たちの担任である英(はなぶさ)かっこ独身28歳かっこっとじがいた。
 何故こういうことになったかというと、話は金曜日に遡る。


「先日の約束どうする? この日曜日だったら、ボク時間とれるけど?」
 雅の就任が決まった金曜日の放課後、練習開始前に神宮が乃愛琉に声を掛けた。例のデートの約束のことだろう。それについては、今朝、すでに乃愛琉と真湖の間で段取りが済んでいた。
「日曜日ですか? いいですけど、あの、先輩、わたし、その……ふたりっきりとかって、ちょっと……恥ずかしくて……。その、ダブルデートってわけにいきませんか?」
「ダブルデート?」
 神宮はちょっと考えた風にして、
「へえ、それはそれで面白い趣向なんじゃない? 誰と?」
「真湖ちゃんです。わたしたち、小学校からの幼なじみなんです」
 乃愛琉は真湖を指指した
「そうなんだ? ダブルデートってことは、向こうもカップルってことだよね?」
「はい、そうです」
「なら、まあいいか。二人のお相手するのも乙かなとは思ったけど」
 つまり両手に花。そう出たかと、乃愛琉は思ったが、一応事前の打ち合わせ通りに。
「いいんですかぁー? 神宮先輩ってぇ、本当に優しいんですねぇ」
 乃愛琉はできるだけ甘い声を出した。思いっきり演技声になってるが、神宮は気にしてないみたいなのでそのままいく。
「でぇ、わたし、行きたいところがぁ、あるんですけどぉ。いいですかぁ?」
「いいよ、君の行きたいところにしよう? どこに行く? 遊園地? それとも?」
 地元には、四井グリーンランドという遊園地がある。そこのことを言っているのだろう。
「当日までぇ、秘密ぅですぅ」
 非常にわざとらしい口調であったが、むしろ神宮の目は輝いてきた。
「ははは。面白いね、君。じゃあ、当日のスケジュールは任せるよ。楽しみにしてるよ」
「はい! わたしも楽しみですぅ」
 日曜日の午前9時に石見沢駅前で落ち合う約束をして、練習に入った。
 真湖との今朝の打ち合わせでは、駅前で会って、買い物かなにかに付き合わせて、昼ご飯食べて別れる予定で考えていた。適当にお茶を濁してさっさととんずらするつもりでいたのである。

 一方、就任を決めた途端に雅は本気モードに入っていた。最初現の指導には口を挟むことはしなかったが、練習を始終見て、おのおのの特徴を捉えるべく、時々独唱を指示したりしては、メモに何か書いていた。
 そして、練習が終わった後、現を廊下に呼び出して、相談を持ちかけた。
「煌輝(きらめき)さんから聞いたんだけど、Nコン全国出場目指すって言ってたけど、君は本気なのかい?」
 雅の目が真剣だった。
「あ、いえ……その、本気ではあります。ありますけど、今のメンバーだと……」
「まあ、ほぼ無理だね、今のままだと」
 雅はまっすぐだった。
「ですよね」
「ただ、原石はいる。磨けばうまくなる要素はある。そして、どうやって一体感を育むかじゃないかな」
 原石も磨かなければただの石ころである。まさに、石ころだらけの合唱部なのが今の現状。
「可能性はありますか?」
「あとは、意識の問題だろうな。今の調子だと、地区大会だって賞をとれるかどうか」
「意識付けですか。そこまでなるとわたしにも分かりません」
「まあ、そこは指導者たる顧問の仕事だからね。……どうしようかな……ちょっと現実を見せた方がいいんじゃないかと思うんだけど」
「現実……ですか?」
 現はきょとんとした。
「煌輝さんたちは1年生だから、当然Nコンに出たことないだろ? 他の学校がどれだけ上手いかとか知らないんじゃないか?」
 ああ、と現は頷いた。なんとなく雅の言っている意味が分かったような気がした。
「多分、ボクが思うに、この合唱部の要はあの子だと思ってる。もちろん、言い出したのが彼女だっていうのもあるけれど、なんていうのかな、人をぐいぐい引っ張っていこうとする力があるっていうのか」
「わたしも、引っ張られっぱなしですけどね」
 現は苦笑しながら同意した。
「要となる子が現実を知らないと、どうしても手を抜くし、高い目標がないと頑張れない」
「高すぎても、ですけど」
「だって、全国目指すんだろ。高くて結構。それで諦めるくらいなら、最初からやらない方がいい」
「先生って、厳しいんですね、見かけによらず」
「そうかい、そんなに頼りなく見えるかい?」
「いえ、失礼しました」
「こう見えても、三井先生の直弟子でね。この学校に来られる前の話だけど」
「ああ、それで……」
 三井先生も厳しい人だった。その愛弟子だったということは、それなりに覚悟しておく必要があるのだろう。校長先生もそれを知っていて、雅を合唱部顧問にしたのだろうか。にしても、最初は固辞していたと聞く。教員免許を持ちながら、用務員として就任するなど、不思議な人である。
「ボクの知り合いに、札幌の新栄中学の合唱部顧問がいるんだよ。見学させてもらうくらいはできると思う」
「新栄中って、あの……?」
 新栄中は北海道地区優勝の常連校である。合唱部は全国制覇も何度もしている全国トップレベルの実力をもっている。
「いきなり、新栄中ですか。それは確かに高い目標ですね」
 全道大会にさえ出たことのない現は、新栄中の合唱を見たことがない。何度かテレビ越しでNコンの発表を見たことがある程度。直接見られるなら自分も見てみたいと思った。
「全国目指すなら、全国レベル見ないと。札幌はここからも近いし。どうだろうか」
「でも、札幌までとなると、保護者が必要ですね」
「もちろんボクが引率するよ。明後日の日曜日とかどうだい? 部長と副部長も一緒に行けるなら」
「また、急ぎですね。わたしは大丈夫ですけど。ひろ……副部長も大丈夫だと思います」
「善は急げっていうじゃないか。煌輝さんには部長から聞いてもらえないかな」
「分かりました」


「じゃあ、今日は解散。お疲れ様でした。
 あ、煌輝さんは残って」
 廊下から戻って現はすぐに皆に声を掛けた。
「え? あたしですか?」
「ちょっと話があるの」
「はーい」
 女子はそのまま準備室で着替えを始める。男子はジャージのまま帰る者もいれば、その場でいきなり着替え始める者もいて、主に如月がきゃーきゃー騒いでいた。
「じゃあ、わたし、先に行ってるね」
 乃愛琉が真湖に声を掛ける。翔と一緒にいつもの辻で待ち合わせすることになっている。日曜日のダブルデートの計画を立てなければならない。
「うん、わかったー。追っかけ行くから」
 音楽室から部員がいなくなると、現の方から話を始めた。
「煌輝さんって、日曜日何か予定入ってる?」
「日曜日ですか? えっと……午前中にちょっと……」
 ダブルデートは昼に終わらせるつもりでいたので、そう答える。あの件については、現は反対だったようなので、詳しく説明することは避けた。
「あ、そうなの。それじゃ仕方ないわね。次の週にでも替えてもらうように言おうかしら……」
「何かあったんですか?」
 合唱部の話であればみんなの前で話しするだろうし、自分だけ残された事情だけは聞いてみたかった。
「うん、実はね……」
 現は先ほど雅に言われた内容をそのまま伝えた。
「え! 全国レベルの合唱部ですか! 行きたいです、絶対行きたいです!」
「じゃあ、翌週にでも替えてもらう?」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 真湖は考え込んだ。これはもしかして、チャンスかも知れない。神宮とのデートをそっちに切り替えてしまえば、一石二鳥ではないか。しかも、同伴者付きとなれば、神宮も滅多なことはできないだろうし。
 ただ、問題は現が同行することである。神宮との約束を果たすことがバレてしまう。
「ああん。どうしようかな……」
「もしかして、神宮くんの件?」
 現はすぐに察した。さっき神宮と乃愛琉が話をしているのを見て、そんな気はしていたから。
「あ、バレてました?」
「って言うか、合歓さんにも忠告しておこうと思ってたのよね。ちょうど良かったわ。
 あの神宮って人ね、ああ見えても3年の中では結構人気あってさ。街中でデートなんてしようものなら、翌日絶対に虐めにあうから、やめときなって言ってあげようと思ってたとこなの」
 真湖はさっと血の気が引いた。そんなこととは露知らず、お茶を濁すどころか、やぶ蛇になるところだったのだ。
「本人に直接言うのもなんだから、煌輝さんに伝えるつもりでいたのよ」
「あ、ありがとうございます。すみません」
 これを不幸中の幸いという。
「そしたら、神宮くんと日曜日約束したの?」
「はい、そうなんです」
「あなたが言ってた、ダブルデートってことで?」
「はい、そうです」
 真湖はすっかり小さくなった。
「もう行き先決めたの? デートの」
「いえ。まだ決めてなくって、神宮先輩にはこちらにお任せしてもらうって」
「あら、そうなの」
 現は少し間を空けて、
「じゃあ、札幌に連れて行っちゃう?」
 悪戯っ子の顔をした。どうやら、真湖と同じことを考えたようだ。
「い、いいんですか?」
「元々神宮くん連れてきたのわたしだから、責任の一端はわたしにあるわけだし。騙し討ちになっちゃうけど、嘘ではないし、いいんじゃない?」
 現の責任。阿修羅もそんなこと言ってたなと思いつつ。
「札幌に連れて行けば、石見沢で目撃されることないし、一石二鳥でしょ?」
 現はそう言って、神宮の真似してウインクした。


 というわけで、ダブルデートは札幌行きになり、トリプルデートになった。しかも、石見沢駅前でたまたま札幌に買い物に出かけようとしていた英先生に雅が捕まり、4カップルという奇妙な一団ができあがったのである。
「本当、奇遇ですねぇ」
 英(28歳独身)が嬉々として、雅に話しかけた。
 英婚活メモによると、雅は35歳独身。東京の音大を出て教員資格をとり、東京で教鞭をとっていたが、実家の事情で帰郷したばかり。校長の親戚筋ということもあってこの学校に用務員として迎えられたという情報。先日入院した音楽教師に代わって臨時教師にという話もあり、あとは市教育委員会の判断待ちという噂である。
 若干精彩に欠けるところもあるが、よく見れば整った顔立ちで、年上好みの英にとっては絶好のターゲットであった。なにせ、東京の音大出というこんな田舎町では滅多に拝めないエリートである。
「そ、そうですね」
 雅は困ったように返事した。
「結局、合唱部の顧問お受けになられたんですね。早速引率とは、大変ですねぇ。それで……」
 教室ではやる気のなさそうな雰囲気を常に醸し出している担任が、今日はまるで別人のように雅に迫っているのを横目で見ながら向かいを見る。
 すっかり騙し討ちにあった神宮は、気分を害しているかと思えば、楽しく乃愛琉と歓談中だった。話を聞いていると、なんでも札幌には親戚が多く、訪れることが多いらしい。逆に滅多に札幌に行かない乃愛琉に色々と自慢話をするのが楽しいようだ。
 かと思えば、いつも何があっても楽しげな翔が今日は大人しい。ずっと車窓の外を見て、真湖と話をしようともしない。
 金曜日の夜、現と札幌行きを決めたことを翔に伝えた後くらいから、彼の表情は暗いままだった。
 もしかすると、札幌にはあまりいい思い出がないのかも知れない。翔には悪いことしてしまったのだろうかと真湖は少し後悔した。
 また隣のボックスを眺めると、英アタックにすっかりげんなりしている現と栗花落がいた。二人は参考書片手に勉強している振りをしているが、どう見ても頭に入ってきてはなさそうである。
 真湖は心の中で両手を合わせて合掌した。


 札幌に到着すると、ようやく雅は英に解放され、英はそのままショッピングへと旅立っていった。足下が浮ついていたのは気のせいではないはず。逆に雅はすっかり魂を抜かれたようになっていた。
「新栄中だと、地下鉄に乗っていった方が早いですよね?」
「そうだね、ボクが案内するよ。こっちだよ」
 さすがに自慢するだけあって、神宮はさっさと改札から出てみんなを誘導した。もちろん乃愛琉のエスコートも忘れない。
 札幌の地下鉄は全部で3本あり、南北線、東西線、東豊線がさっぽろ駅と大通りを中心に放射線状に延びており、JRさっぽろ駅と地下鉄札幌駅は直結で繋がっているため、構外に出なくても乗り換えができるようになっている。
「新栄ってことは、東西線で福済駅からバスか」
 神宮は人数分の切符を買い、全員に渡す。大変手際が良く、引率の雅の上をいっている。
「あ、いいよ、神宮くん、ボクが出すから」
「じゃあ、あとで精算しましょう。ほら、乃愛琉くん、これ、ここに入れるんだよ」
 切符を改札に通すところまでケアする。とにかく気が回る。3年女子から人気があるというのも頷けないわけでもない。乃愛琉は少し神宮を見直していた。
「さすがに石見沢とは全然違うなぁ」
 すっかりお上りさん状態の真湖は改札におどおどしながら周りをキョロキョロする。
「真湖ちゃん、危ないよ、ちゃんと前見てないと」
 エスカレーターで突っ転びそうになった真湖を翔が支えた。
「あ、ごめん、ありがと」
「ううん」
 ここでいつもなら、軽口が飛び出すのだが、やはり今日の翔は何かが違った。
「ごめんね。あんま楽しくないでしょ?」
 真湖はやっぱり気になってそう言ってしまった。
「そんなことないよ。大丈夫」
「でも、なんか元気ないし」
「久しぶりの札幌だからね。って言っても、半年も経ってないか……。
 札幌に来るとどうしても、パパのこととか思い出しちゃうしさ。あ、ごめん。でも、別に悲しいとかってそういうことじゃなくって」
 やはり札幌への思いは色々あるのだろう。真湖は何と言うべきか迷った。
「ありがと、気にしてくれて、真湖ちゃん」
 翔は努めていつもの笑顔を取り戻した。
 両親が離婚したと言っていたはず。やはりそれは翔の心の中の傷になっているのかも知れない。ただ、その気持ちは真湖には計り知れないものがあった。

 大通りで、地下鉄を乗り継ぎ、バスに乗り換えてからしばらく歩く。雅がスマホで地図検索してたどり着いた頃にはすでに正午を迎えようとしていた。
 そして、ようやく、一行は新栄中学の校門に到着した。

2014年10月19日日曜日

「Nコン!」第16コーラス目「顧問!」

「そっかー、よかったな」
 垣根の隣で阿修羅(あしゅら)がそう呟いた。
「まずはおめでと」
「ありがと」
 夕飯を終えた後、真湖と阿修羅はお互いの家の垣根を間におしゃべりをしていた。真湖と阿修羅の家は隣同士。ちょうど同じく南側に庭をもっている。
 雪の多い北海道では、縁側というのはない。その代わりに洗濯物を干したりできるように庭に向かってベランダがある家が多少ある程度。ベランダさえない場合も多いのだが、あっても、たいていはコンクリート打ちっ放しの庭に出るためのたたきの程度の物だった。
 庭にはそれぞれ1個づつ木製の椅子が置いてあり、それが真湖と阿修羅の指定席だった。昔から何かあるとここで夕涼みしながらお喋りしていた。最近は阿修羅も真湖も部活のせいで機会は減っていたが。
 まだ春先で寒い時期なので、二人ともにもっこりとヤッケ(※)を着込んでいた。
「それにしても、灯のやつ、ぜってー入んねーって言ってたくせに、それかよ」
「まー、助かったと言えば助かったし。灯ちゃんは灯ちゃんで事情あるんだろうから、あんまそういう言い方しないで」
 今日も部活が終わると、灯は仲良く如月と一緒に塾に向かった。
「やけに灯の肩持つな」
「べつに」
 真湖に対して灯はいつも厳しいが、大体は筋が通っていることが多く、真湖は灯のことは好きだった。この前の翔とのことだって、ああいってはっきり言ってもらえなければ、いつまでも断り切れなかったかも知れない。今日の小林のことだって、灯がいたら何と言っていたか。
「それよりさ……」
 真湖は思い切って、今日の乃愛琉と神宮先輩の話をした。下校時の小林と翔の話は少しオブラートに包んではみたが。
「はぁ? なにそれ。それ、ぜってー、乃愛琉おかしいだろ。それ以上にその神宮って先輩? 冗談にしても度が過ぎるぜ」
「そうよね、あっしゅもそう思うよね!?」
「あったりめーだろ、それ、現先輩の言うとおりだろ。そんな奴入れない方が今後もためだと思うけどなー。合唱部だって、チームワークだべ? それ乱す奴いたら、うまくいくものもうまくいかねぇよ」
 阿修羅の同意を得て、真湖は安心した。やっぱり、あれは断った方がいいんだと。
「で、灯は何か言ってたか?」
「灯ちゃん? その件では何も」
「へぇ、珍しいな。真っ先に言いそうだけどな」
 阿修羅は頭の上に手を回して手を組んだ。随分と日は長くなったがもう空は真っ暗だ。
「ところで、その、神宮って……先輩、そんなに上手なのか?」
「うん、すっごい上手。多分、うちの部の中では飛び抜けてる」
「そっかー。そうなると、なんとしてでもほしいって気持ちも分からなくもないなー」
「えー、だって、チームワークって言ってたじゃない」
「そもそも、目標高過ぎんじゃんよ。全国大会出場とか。おままごと程度でいいなら、要らんけど。全国ってなると……乃愛琉もマジなのかもな」
「あっしゅ、さっき言ったこととまるっきり逆」
「だからさー、俺個人としては反対だけど、乃愛琉の気持ちも分からんでもないってことさ」
「乃愛琉の?」
「あー、でも、その、ダブルデートとかってのはいいアイディアじゃないか。ふたりっきりにさえさせなきゃ、ただ一緒に外出してるってだけだしな」
「ま、まあね」
「その程度で入部してくれるってのなら、それもアリなのかなー?」
「あたしはヤだなー」
「おいおい、それこそ、お前だって、言ってること違うじゃねーかよ」
「んでも……」
「その、ダブルデート、現先輩に行ってもらえばいいんじゃね? 現先輩って、栗花落先輩とつきあってんだろ? だったら、二人に行ってもらえよ。しかも最初は現先輩指名だったんだろ? なら、いいじゃん」
「現先輩はダメよ。これ以上迷惑かけらないし」
「そもそも、神宮先輩連れてきたのも現先輩じゃないか。大体、お前、一緒に行くとしたら誰と行くんだよ?」
 阿修羅が少し前のめりになって、乃愛琉と同じことを聞いた。
「あ、あたしは……その……」
 真湖が躊躇していると、
「エンリコ翔か」
 と、阿修羅が直球を投げてきた。
「え、あ……」
 真湖の狼狽えぶりを見るに、図星だったようだ。
「ま、同じ合唱部だし、どうせお出かけ程度の話だろ。いいんじゃね。」
「あっしゅは、いいの?」
「いいもなにも、俺の口出しすることじゃねーし。どうせ土日だろ? 俺、練習で行けないし」
 阿修羅にしてみれば、何故自分に許可を求めるのか。真湖にしてみれば、何故自分に関係ないような言い方をするのか。まだ幼なじみという名前の二人の関係は徐々に変化してきているのか、思った以上に複雑で、双方にとって納得のいく回答を導き出してくれることはなかった。
 しかし、裏を返せば、阿修羅は自分が候補なのをつい口を滑らした結果になったわけで。真湖にしてみれば、それなら、時間さえ合えば行くの?と聞きたいところではあったが、それを聞く勇気はまだなかった。
「じゃあ、あっしゅは乃愛琉の意見に賛成ってことで、乃愛琉に言っておくわ」
「なして、そういうことになんの? だから、俺は個人的には反対って」
「もう、わかったもん」
「なにがわかったんだよ。よくわかんねー」
「おやすみ」
「はいよ、おやすみ。あー、さむ」
 阿修羅も呆れるような話の締め方をする真湖だったが、家に入る直前に振り向き、
「あっしゅ」
 と、阿修羅を呼んだ。
「んん?」
「ありがとね、話聞いてくれて」
 そう言って、手を振った。
「ん、ああ、したっけ」
 阿修羅もそれに応えて家に入っていった。


 翌日、放課後の音楽室は昨日にもましてどんよりとした空気が漂っていた。特に部長の現がなんだがげっそりしているように思う。
「先輩、どうしたんですか?」
 音楽室に入るなり、真湖が現に聞いた。
「どうもこうもないよ。今度は顧問だってさ。誰も受けてくれないっていうんだよ、校長」
 落ち込んだ現の代わりに栗花落が答えた。
「え? しばらくは音楽の先生がやってくれるって言ってませんでしたっけ?」
「それが昨日から入院したんだって。他の音楽の先生は全然無理って、とりつく島もないらしい」
「で、校長先生は何って言ってるんですか?」
「顧問いないと、創部はできないって」
「それじゃ、約束違うじゃないですか!?」
「いや、そうなんだけど、顧問いないと、どうしてもダメだっていうんだ」
「だって、校長先生、あの時、考えがあるって言ってましたよね?」
「あー、そんなこと言ってたかなぁ?」
「何か心当たりあるってことじゃないんですか?」
「そのことは言ってなかったな」
「あたし、一言、言ってきます!」
「おい、煌輝! 待て!」
 栗花落の制止も聞かず、真湖は音楽室を飛び出して、向かいの校長室に飛び込んだ。
「失礼します!」
 校長室の扉を勢いよく開くと、席には校長が、ソファにはどこかで見たことのある、うだつのあがらない風体の男性がいた。作業着を着ている。
「あれ? 用務員さん?」
「ああ、ちょうどいいとこに。君たちもそこ、座んなさいな」
 真湖の無礼にも気にせず、校長は真湖と追ってきた栗花落に席を勧めた。予想外の対応に毒気を抜かれた真湖は言われるがままにソファに座った。栗花落も扉を閉めて、真湖の隣に座った。
「こちらね、雅洋平(みやび ようへい)さん。うちの用務員やってくれてるのネ」
「あ、どうも、先日は……」
 真湖は、校長に紹介されてつい口からそう出てしまった。
「あ、いえ。ども」
「あれ? 二人、知ってるの?」
「あ、いえ、あの……この前、ちょっと道を尋ねて、教えてもらったんです」
 と、真湖は明らかに嘘と分かる嘘をついた。どう、対応してくるか、真湖は雅の様子を伺った。
「あ……、そ、そうだったね」
 雅は真湖の嘘に合わせた。校長の前で、学生同士のいざこざを報告すると、面倒なことになりかねないとでも思ったのだろうか。
「あの、それで、何故用務員さんとのお話で、ボクたちが……?」
「雅くんに、合唱部の指導をネ、つまり顧問になってもらおうと……」
「あの、校長、それはですから、何度もお断りしましたよね?」
 雅は慌てて訂正した。
「どうしてもダメなのかネ?」
「ボクでは、とうてい……」
 雅は頭を垂れた。
「あ、あの!」
 真湖が大声を上げた。
「合唱好きなんですよね? だから、この前も玄関先で声かけてきて! 新歓見てくれたですよね! そうですよね!?」
 真湖は直感でそう言ってみた。新歓の日に玄関先で声を掛けてきた時、『合唱部頑張って』と彼は言った。自分たちが合唱部であることを知っていた。多分新歓の舞台を見ていたのだろう。きっとこの人は合唱が好きなんだ。だから、隠れてあの舞台を見ていたに違いない。
「いや。ボクは、その……素人だから」
 合唱が好きということは否定しなかった。やっぱり、あの舞台を見てくれていたんだ。この人は合唱が好きなんだ。そう真湖は確信した。
「お願いします! 顧問になってください!」
 真湖はソファから降りて、土下座した。栗花落もそれを見て、慌てて隣で土下座した。
「お願いします」
 二人が土下座を始めると、雅はおどおどし始めた。
「いや、ふたりとも、そんな、こと、やめてください。起きてください」
「嫌です! 用務員さんが顧問になってくれるまで、やめません!」
 真湖は強情にそう言った。雅は立ち上がって、真湖の腕を掴んで、立ち上げさせようとした。
「起きてください。そうじゃなと、ボクは……」
 その瞬間、雅のイメージが真湖に流れ込んだ。


 大ホール。
 石見沢では見たことないくらいの大ホールだ。
 そこには数え切れないほどの大勢の生徒たち。その中に彼はいた。まちまちの制服の生徒達は一斉に同じ曲を奏でていた。何千人という生徒たちが同じ歌を歌っているのだ。何千という声が渾然一体となって大ホールに渦巻く。
 それは以前、従兄弟の翔平から受けたイメージにそっくりだった。
 そして、その曲は……。


 腕を掴まれたまま、真湖はされるがままに立ち上がった。
「あそこに連れて行ってください!」
 立ち上がったと思うと、雅にそう行った。
「え?」
 雅は呆気にとられた。
「あの場所に行きたいんです。お兄ちゃんが教えてくれたんです。全国に行ったら、すごい体験ができるって。用務員さんも、行ったんですよね? あそこに?」
「え、全国って、Nコンってことかい?」
「そうです。Nコンです! あそこに行って、みんなで『大地讃頌』を歌うのが夢なんです!」
 雅は一瞬言葉を失った。
「Nコン全国ときて、大地讃頌ですか。参ったな……」
 雅は真湖の腕を掴んだ手を離した。
「君、いいとこ突くねぇ。
 あれはね……」
 雅は黒縁眼鏡をきゅっと上げてから、ふふっと笑った。自虐の笑みとでも言うのか、悲しみの含まれた笑いだった。

「……泣くよ」

 そう言って、雅は真湖に微笑んだ。


 音楽室に戻ってきた真湖と栗花落を、部員は固唾を呑んで迎えた。
「で、どうだったの?」
 現がまず口火を切った。
「それは……」
 と、栗花落が言いかけた時、真湖が如月バリに、Vサインを出した。
「おお!」
 と、音楽室がどよめいた。
「ご紹介します!あたしたちの合唱部の顧問で、雅先生です!」
 調子に乗って、そのまま真湖は自分たちに着いてきた雅を手招きして、皆に紹介した。
「あ、あれ? この前の用務員さん?」
 乃愛琉だけは知っていたが、他の人は知らなかった。
「こんな用務員さんいたっけ?」
 上級生達も知らなかった。それもそのはず、
「雅くんは、今年から用務員としてこの学校に来たばっかりだからネ。こう見えても、教員免許も持ってるから、教師もできるんだよ。まあ、いろいろ事情があって、今はこうしてるけどネ」
「ああ、それで……」
 上級生からはそんな言葉が。
「あ、あの、ご紹介にあずかりました、雅洋平です。この子たちには言いましたけど、どこまで指導できるか分かりません。でも、全国大会出場という大きな目標を立てたって聞いてます。ですから、ボクもできるだけのことはしますし、厳しいこと言うかも知れませんが、一度乗った船ですから、一緒に頑張っていきましょう。よろしくお願いします!」
 雅はそう言って、丁寧にお辞儀をした。
「よろしくお願いします!」
 部員も倣って深くお辞儀をした。

 ようやく、西光中合唱部は本当の意味での第一歩を踏み出した。


※ヤッケ……北海道では外套のことをヤッケと呼ぶ

2014年10月18日土曜日

「Nコン!」第15コーラス目「創部!」

「灯?」
 如月に連れてこられ、扉のところで小さくなっているのは、まぎれもなく灯だった。
「灯、合唱部に入ってくれるの?」
 入学以来何度も入部を断られ続けてきた真湖が大喜びで灯に近づく。
「べ、別に、あんたのために入部するわけじゃないんだからね。如月先輩に、勉強教えてもらう代わりにっていう約束しただけなんだから」
 大喜びに沸く真湖に、灯は目を逸らしながらそう言い放った。なにやら頬がうっすらと紅いのはなんだろうと乃愛琉(のえる)は思った。多分、あれだけ拒否したのに、結局入部することになった後ろめたさからなのか。相変わらず素直じゃないなとは思う。
「おー。如月先輩やるぅ」
 あれだけ頑なに拒否していた灯を懐柔するとは、と、翔が感心した。
「まぁねー」
 そんな翔にVサインを向ける如月。
「じゃ、じゃあ、10人揃ったってことか! 如月、大金星だよ」
 さっきまでの心配をよそに、栗花落(つゆり)は万歳して喜んだ。
「じゃあ、早速みんな入部届書いてちょうだい。すぐに職員室に持って行くから!」
 現(うつつ)は慌てて、所定の入部届を取り出して、みんなに渡した。櫻と愛(まな)の分は櫻の母が記入した。音楽室の大騒ぎが一段落して、皆が氏名の記入に集中していた頃、神宮がふと手を止めた。
「ってことは、合唱部の創部は決まったってことだから、ボクは用済みってことでいいんだよね?」
 そう言うかと思うと、手渡された用紙をそのまま机の上に置いて、鞄を持って立ち上がった。
「神宮先輩、入部しないんですか?」
 驚いた真湖がすぐに立ち上がって神宮の裾を掴んだ。
「だって、ボクはあくまでも助っ人だし、新歓の時だけっていう約束だからね、現くんとは」
「え、そうなんですか?」
 真湖が振り向くと。
「まあ、たしかに、そういう約束だったわね。でも、Nコンの時も手伝ってはくれるんだったわよね?」
「ボクもいろいろと忙しいんでね。約束はできないけど、検討はしてみるよ。現くんのたってのお願いということだったらね」
 と、神宮は現にウインクしたが、現は躱した。
「えー、でも、せっかく一緒に歌ったじゃないですかー。一緒にやりましょうよー」
 神宮の裾をつかんだまま真湖はイヤイヤした。
「女の子を困らせるなんて、なんて、罪な男なんだろうね、ボクは」
 しかし、神宮は動じる様子もなく、そう言い、音楽室の空気を一瞬どんよりさせた。
「神宮先輩入ってくれないと、真湖困っちゃう!」
 しかし、さらにノリを間違えた真湖のせいで、さらに音楽室の空気は淀んだ。
「神宮先輩、なにか他の部活やるんですか?」
 乃愛琉が見かねて口を挟んだ。神宮の目が一瞬瞬いた。
「いや。でも、こう見えてもね、ボクは今年受験生なんだよね。勉学は学生の本分だしね。とは言っても、前にも言ったけど、君たちが、どーーーーしてもっていうなら、入部、考えないでもないんだけどね」
 神宮は深く深く伸ばした口調で言った。どう見ても演技である。
「どうしたら、考えてもらえるんですか?」
 やっぱり苦手だこの人と思いつつ、真湖のことを思うとつい口出ししてしまう。
「そうだねー」
 と、神宮は顎に手を当てて、なにやら考え込んでから、
「現くんにデートでもしてもらおうかなー。ああ、君でもいいけど。なんてね。冗談冗談」
 と、手をひらひらした。
「現先輩はダメです、カレシいますから。わたしならいいですよ」
「へぇ、いいのかい?」
「デートしたら、入部してくれるんですか?」
「まあ、考えても……」
「考えるだけならダメです。デートしたら、入部してください」
「はい、はい、わかったよ。じゃ、そうしようか」
「ダメに決まってるでしょ、そんなこと。人の弱みにつけ込んで。そんなんで入部するってなら、わたしがお断りよ」
 さすがに現が放ってはおかなかった。
「そーよ、そーよ」
 真湖が尻馬に乗る。
「別におつきあいするてわけじゃないですし。わたしから神宮先輩をデートに誘うってことではダメですか?」
「いや、そういう問題じゃなくって」
 毅然と反論する乃愛琉に現はたじろいだ。こんな子だったっけと。
「うん、わかった。合歓くんだったっけ、気に入った。君、かわいいだけじゃないね」
 そう言うと、神宮はまたさっきの机に戻って、さらさらを自分の名前をクラスを書いて、現に渡した。
「じゃ、入部よろしく。どっちにしてもね、今日は用事があるので、先に帰らせてもらいますね、部長?」
 受け取った現は苦虫を潰したような顔をした。そのまま黙って神宮が出て行くのを見送った。
「ちょっと、乃愛琉、何考えてるの?」
 真湖が詰問する。
「別にいいじゃない? 一度デートってものしてみたかったのもあるしね」
 珍しく真湖に反抗するような言い方をした。
「いや、だって……」
「だから、神宮入れるの反対だったんだよな」
「だけど、仕方ないって言って、蒼斗(ひろと)だって最後までは反対しなかったじゃん」
「もう、この話はやめませんか?神宮先輩は入部されたんだし。わたしがそれでどうするかとかは合唱部とはもう関係ないですから」
 これ以上部屋の雰囲気が悪化するのを、乃愛琉は必死で止めようとしているのだった。
「わ、分かったわ。じゃあ、みんな、入部届けに記入終わったらわたしのとこに持って来て」
 そうした乃愛琉の気持ちを読んでか、現がそう言うと他の部員も口出しをやめた。真湖もまだ言い足りないことがあったが、今はやめておくことにした。
 順々に入部届が集まり、全部で21枚が揃った。これが復活合唱部の最初のメンバーである。
「じゃあ、早速行ってくるね」
 そう言って、現と栗花落は向かいの職員室へと出て行った。
「うちの子、本当にいいですか? よろしくお願いしますね」
 現たちが職員室に向かった後も、櫻の母は部員達にペコペコと頭を下げていた。どうやら全員に挨拶するつもりらしい。当の本人は、すっかり気に入ったと見えて、真湖にべったりくっついていた。
 櫻の前でさっきの話を蒸し返すのもなんだと思い、真湖は櫻に問いかけた
「櫻ちゃんって、どんな歌が好きなの?」
「んと……」
 櫻は少し考えてから、
「お歌なら、なんでも……好き」
「そ、そう? じゃあ、最近で一番好きな歌は?」
「さい……きん?」
「そ、今、櫻ちゃんが一番好きな歌」
「こーか」
 と言ったかと思うと、またさっきのように校歌を奏で始めた。
「あ、すみませんね、気に入ると何度でも歌い出すんです」
 櫻の母が恐縮そうに言った。
「いえ、あたし、櫻ちゃんの歌が好きですから」
「す……き?」
 ふと、櫻の歌が止まった。
「ん?」
「まこ、さくらの……うた……すき?」
「もちろんだよ、さっきも、いまのも大好きだよ。櫻ちゃん、上手だもん」
「あり、がと」
 櫻はモジモジして、ふと真湖から離れて、母の元に戻った。
「……」
 戻ると、櫻は愛とこそこそ話を始めた。
「あー、何話してんのかなー、バカじゃんあいつとか言ってんのかなー」
「そんなこと言ってるわけないじゃない」
 不安げに呟く真湖に、乃愛琉がそう諭した。真湖と櫻、お互いに遠くで見つめ合いながら友人とささやき会話を続けるという奇妙な風景がしばらく続いた。
「出してきたよー!」
 そんな時に、威勢良く現が教室に戻ってきた。
「受理されたんですか?」
 すぐに如月が食いついた。
「もっちろん」
 如月バリに現がVサイン。
「やったー!」
 音楽室中が大騒ぎになった。
「良かったね」
「やったね」
「よろしくな!」
 それぞれに感激の声を上げた。特に真湖は涙ながらに現に抱きついた。
「先輩ありがとうございます! ありがとうございます!」
「煌輝さん、よかったね。これからも頑張ろうね」
 二人は抱き合いながら、喜びを分かち合った。横で栗花落と乃愛琉が二人を温かい目で見つめた。今回の出来事で一番苦労したのは現だったはず。おかげで真湖はようやく夢の一歩を踏み出せたのだ。
 ただ、帰ってきた栗花落の表情が冴えないことに乃愛琉はなんとなく気がついていた。

「一緒に帰ろうぜー」
 真湖、乃愛琉と翔に声を掛けてきたのは同じクラスの小林だった。
「あれ、小林くんたちって、同じ方向だったっけ?」
 小林は美馬と一緒に玄関を出たところだった。
「方向は違うけどさ、すぐそこまで一緒じゃん。同じクラスなんだし、部活も一緒になったんだから、いいじゃん、一緒に出ても」
 確かに、小林の言うとおり、どの方向に家があったとしても、校門から大通りに出るまでは一本道で皆同じ道を辿ることになるのだ。
「小林くんたちって、西小? 北小?」
「残念、陽光小でした」
 陽光小は西北よりもっと遠い地域にあり、田園風景の広がるところだった。両方向を丘に囲まれているので、中学は西光中なのだが、直線距離としては、どの小学校より遠い。
「帰り時間かかりそう…」
 乃愛琉が言いかけたところに、小林が被せてきた。
「それよりさ、さっきの話さ、やっぱ、やめた方がいいんじゃね?」
 小林は、さきほどの乃愛琉と神宮のデートの件を言っているらしい。乃愛琉と二人きりになったら言い出そうと思っていた真湖は出し抜かれたかたちになった。
「もう、やめよう、その話」
「やめねぇよ。だって、合唱部のみんなのために、なんで合歓だけ一人犠牲になんなきゃなんねぇの?」
「犠牲とか、そんなことないし。だから、これ、わたしの話だから。いいでしょ」
「よくないって」
 小林が乃愛琉の手首に手を掛けた時、真湖が口を挟んだ。
「乃愛琉……。そ、そうだ、じゃあ、あたしも行くよ!」
「え?」
「だって、なんだっけ、ダブルデートとかってあるじゃん。あれなら、二人きりじゃなくても、デートはデートでしょ? なら、いいんじゃない?」
「な、何言ってんの。だとしても、真湖ちゃんは誰と行くのよ?」
 乃愛琉の脳裏には一瞬阿修羅の顔が浮かんだのだが。
「あ、それは……」
 しかし、真湖は即答できずに狼狽えた。
「ボクが一緒に行くよ?」
 早速翔が立候補。
「ちょ、待てよ、エンリコ、そこで出るか?」
 何かもの言いたげに小林が文句を言った。
 そこに、
「ダメだよ! そんなの、ダメだよ!」
 今まで黙って着いてきた、美馬が大声を出した。
「好きでもない人とデートとか、おかしいよ。ダメだよ!」
 普段大人しい美馬が叫んだことで、皆一瞬止まった。けれど、美馬から次の台詞が出ることはなく。
「で、でも、好きかどうか分からないし。べ、べつに嫌いってわけでもないし……」
 乃愛琉が言い訳じみた口調で言った。むしろ、乃愛琉にとっては神宮は苦手なタイプで、好きな方でなないことは確かなのである。
「じゃあ、好きなの? あの神宮って先輩が好きなの?」
 美馬は乃愛琉に迫った。乃愛琉もその勢いにタジタジになる。
「あ……ごめん」
 急に我を思い出したかのように、美馬はいつもの表情に戻った。
「ごめん、帰る……」
 それだけ言って、美馬は校門から出て、表通りに駆けて行った。
「おい、待てよ!」
 小林は追いかけようとして、思いとどまった。それから、また振り返って、美馬に聞こえないように気遣ったのか、小さい声で、
「ごめん、美馬さ、合歓のこと、好きらしいんだ。それで、あんな……」
 謝るようにして、小林がそう言った。
「え……?」
 乃愛琉は一瞬硬直した。そんなこととは露知らずあんな言い方を。
「あ、今の、俺が言わなかったことにしてくれないか? 美馬も、俺には何も言ってないし。ただ、俺が気がついたっていうか。悪い」
「うん。分かった」
 乃愛琉もかなり動揺していた。そう言うのが関の山で。
「それに、俺も……さ」
 急に小林の滑舌が悪くなった。
「俺、も。なにさ?」
 翔がツッこんだ。
「いや、なに……その、エンリコも、人が悪いやつだな……あのな……」
 それに、小林が紅くなって、翔の耳元に内緒話をした。
「そっかー! 小林くんも真湖ちゃんが好きなんだね!」
「こらー!エンリコ、それじゃあ、内緒話の意味ねーじゃねぇか!」
 小林は、翔の首根っこを腕でがっしりと捕まえて、ネックホールドの体勢。
「ちょ……」
 今度は真湖が紅くなった。
「そ、そっかー、じゃあ、またライバル増えたね!」
 翔は小林にがっしりと掴まれたまま、そう言った。
「また?」
 小林の力が少し抜けた。
「あれ? 知らないの? 真湖ちゃん人気あるんだよ」
「誰よ?」
「剣藤阿修羅」
「ちょ、エンリコくん! あっしゅは違うって!」
 慌てて真湖は否定した。
「え、剣藤って、野球部の? あれが、煌輝の? うわー。マジー? 強敵ー!」
 小林は冗談とも本気ともつかない言い方をした。
「違うって、違うって。あっしゅはただのお隣さんだし!」
 真湖は両手をブンブン振って、全力で否定しようとする。その反応で小林も悟ったらしい。
「そっかー」
「でも、いいんじゃなーい。みんな真湖ちゃん好きなんだし。オープンでいこうよ? 人を好きになるって素晴らしいことじゃないか。何故隠すことがあるんだい?」
 翔は軽くそう言った。
「もう、なに言っての、本当にもう! オープンとか、もうやめてよね。告白って、そんな簡単にするもんじゃないでしょ?」
 美馬の乃愛琉への想いが小林からバラされたかと思うのと、今度は真湖へ、小林からの激白だったり。乃愛琉も真湖も心の中で右往左往していた。
「まあ、とにかくさ、そんなことだから、今の美馬のことは多目にみてやってくれないか?」
「で、でもさ! それって……」
 真湖がいきなり冷静になった。
「つまり、乃愛琉に気があったから、合唱部に入ろうとしたってこと? 下心あったってこと? それじゃあ、神宮先輩のこと言えないじゃない?」
「そんなんじゃねーよ。俺たち確かに歌は好きだし。ただ、そこにおまえ達がタマタマいただけって話だよ。バカにすんなよな。じゃ、俺、美馬追っかけるから。したっけ、明日」
 そう言って、小林は美馬の後を追いかけた。
「なんなの一体?」
「小林も素直じゃないなー。じゃ、ボクも空気読んで先に帰るね」
 そう言って、翔も小林を追いかけるようにして大通りを先に曲がって行った。
 すっかり、ドタバタの中に取り残された真湖と乃愛琉だった。

 そんな風に真湖たちが甘い春の入り口を経験している時、石見沢西光中学校の職員室は重苦しい雰囲気に包まれていた。
 黒板に書かれた議題は「合唱部の創部について」だった。

「Nコン!」第14コーラス目「勝負!」

 新歓の日、待てど暮らせど、結局新入部員は10名には達しないまま、結局その日は解散となった。
 真湖と乃愛琉(のえる)は帰宅の途につくべく、生徒玄関から出た。翔は用事があると言って先に帰っていた。
「明日はもいっかいクラスのみんなに声かけてみよう」
 このままだと、暫定合唱部のままになってしまう。もしくは再度廃部ということにもなりかねない。
「そうね。でも、小林くんと美馬くんが入ってくれたのはラッキーだったね」
「そうだね。明日は小林くんと美馬くんにも手伝ってもらおう?」
「そうね……あと3人かぁ」
 最初が良かっただけに、あと3人というところで止まってしまったのがとても悔しかった。あのまま10名に達してくれていれば、と思わないでもない。
「あ、あれ?」
 乃愛琉がふと前を見て止まった。
「ん?」
 真湖が乃愛琉に目線を合わせると、どこかで見たことのある姿が。教師としては比較的若い、なんともうだつの上がらない風体の男性だった。ただ、作業着のような物を着ているので、教師ではないのだろうか。
「ああ、君たちは……あの時の」
 その男性は被っていた帽子を脱いで、二人に笑顔を向けた。なんともぎこちない笑顔ではあったが。
「あ、あの時の用務員さん!?」
 それは、入学式の翌日、上級生の3人から絡まれた時に助けてくれた用務員だった。
「あ、あの時は大変お世話になりました! 乃愛琉行こう……」
 真湖は深々とお辞儀をしてから、慌てて乃愛琉の手を引っ張って行こうとした。あの上級生の件は、あまり触れられたくはなかったからだ。
「あ、あの……」
 びっくりしたように、用務員の男性は二人に手を差し伸べたが、止めた。
「合唱部員だったんだね、君たち。あの、その……頑張ってね!」
 大声でそれだけ二人に言うと、そのまま二人が走り去るのを見守った。
「ちょ、どうしたの、真湖ちゃん?」
 校門を過ぎた辺りで乃愛琉が真湖を止めた。
「だって、あの時の3年生の話思い出されると困るもん」
「でも、なんか、言いたかったみたいだよ、あの公務員さん。それに、合唱部って……どうして知ってるんだろう?」
「あの時、合唱部の話したからじゃないかな?」
「でも、頑張ってって」
 そう言われると、不思議な感じもする。あの時の話では、あの3人から合唱部をつくるなと言われた話はしたように思うけれど、自分たちが合唱部員だという話ではなかったように思える。
「んー、そうだねー、なんか変な感じ」
 とは言っても、今更戻る訳にもいかず、二人はとぼとぼそのまま歩き始めた。

「よ。どした、元気ないな?」
 途中、阿修羅が追いついてきた。ユニフォームをドロドロにしたままだった。
「わぁ、あっしゅ、汚い! 大丈夫よ、元気よ。いきなり背後から声かけないで、びっくりするから」
 それでも、気にせずに阿修羅はそのままついてきた。
「あれ?翔のやつは?」
「エンリコくんなら、用事があるって、先に帰ったよ」
「ふーん。で、どうよ? 新入部員? 何人かは入ってきたか?
 やはりそこが気になるらしい。
「今日だけで7人入りました。ありがとうございます」
「お、すげーじゃん、じゃああと3人か。すぐ集まんじゃね?」
「あっしゅんとこはどう?」
「うち? うち、15人入ってきたわ。これでレギュラー争い激しくなるわー」
 なんとも楽しげに言った。合唱部の倍以上の入部員だった。部活動の花形だから当然と言えば、言えるのだが、やはり妬ける。
「せいぜい頑張ってくださいな」
「お、そんな言い方ないんじゃない? 秋に手伝ってやんねーぞ」
「え? 手伝ってはくれるの?」
「このまま10人集まんなくって暫定のまんまだったらさ、人数あわせで各クラスから割り当てくるかも知れないじゃん。そうなったら、手伝ってやるよ」
「いーえ、結構です、自力で集めますから、絶対10人以上にしてるやるんだから!」
 勢いでそうは言ったものの、ジト目で阿修羅を振り向き、
「10人集まっても、あっしゅには、Nコンには出てもらうからねー」
「なんだよ、その、都合のいい話は」
 と、阿修羅は苦笑いをした。
「まあ、いいや。じゃあ、校長との勝負に勝ったら、俺と勝負だな」
「なによ、勝負って?」
「まあ、まずは合唱部がだな、新入部員無事10人揃ったとしてな」
「揃うから!」
「まだ揃ってねーだろ、揃ってから言え」
 真湖もぐうの音も出なかった。
「調べたんだが、俺がNコンに出るには二つの条件がある。一つは俺がこの夏にレギュラーをとれること。それから、新人戦で地方大会で負けること。さすがに今年の夏までにレギュラーは無理だろうけど、夏大会が終われば、1年、2年にレギュラーが回ってくる。俺は、2年生を差し置いてでも、レギュラーになる。そして、新人戦では全道に行く。全道に行ったら、Nコンには出られない」
「へ?」
 意味の分かっていない真湖に構わず、阿修羅は続けた。
「逆に、真湖たちは、Nコンは最低全道に出ること。俺は、新人戦地方選に出るから、Nコンの地方大会は出られない。もちろん、レギュラーになればの話だけどな」
「ああ、なるほど」
 乃愛琉は意味が分かった様子。
「え、どゆ意味?」
「つまり、まずはあっしゅくんは、レギュラーをとることが勝負の最初。わたしたちは、全道に出ること。で、わたしたちが全道に出たとしても、あっしゅくんが全道に出たら、わたしたちと一緒には行けない。逆に、地方選で負けたら、一緒に全道に出るってこと。でしょ?」
 阿修羅は頷いた。
「ふーん。いいわよ、勝負してやる」
 しかし、乃愛琉は知っていた、この勝負、かなり阿修羅には分が悪い。第一に1年生で新人戦でレギュラーを取るのがどれだけ大変なことか。リトルリーグでは突出して活躍していた阿修羅だが、それでもかなり難しいだろう。しかも、西光中学の野球部は過去にも全道に出るほどの強豪ではなかったはず。二重に高いハードルなのだ。
 なんだかんだ言っても阿修羅は真湖のことが心配なんだろうなとは乃愛琉の心にしまっておくことにした。
「ほう。じゃ、負けんなよ。ってか、とりあえず、1年生10人揃えろよな」
「負けないもん!」
「じゃ、俺、あとダッシュして帰るから。じゃな」
 と言うが早いか、阿修羅は駆け足で真湖達から走り去った。途中の曲がり角でいつもと反対の方に走って行く。明らかにこのことを真湖に伝えるために後を追ってきたのだろう。練習を抜け出してきたのか、それとも一度家に帰ってからまた戻ってきたのか。どちらにしても、本当に阿修羅って可愛いと乃愛琉は思った。
「何あいつ、何しに来たのよ。そんなの明日クラスで言えばいいのに」
 そんなことは人前では言えないっていうのが真湖には分からないのだろう。真湖は一人でぶーたれていた。
「でもいいな、真湖とあっしゅくんて」
 ぼそりと乃愛琉が呟くと、
「え? なにが? なにが?」
 まるっきり乃愛琉の言っていることが理解不能な真湖だった。

 翌日の放課後、合唱部員は音楽室に集まっていた。
「んー」
 栗花落(つゆり)がうなり声を上げた。
「今日中? そんなこと言ってなかったじゃん」
 栗花落がこう漏らすのは、つい先ほどまで音楽室にいた校長のことだった。向かいの校長室からふらりと現れたかと思うと、
「どうだネ? 新入生の部員は集まったかネ? 今日中に部員の名前一覧に書いて教頭の所に提出していってネ?」
 とだけ言ったかと思うと、返事も待たずにまた校長室に戻ってしまったのだ。
「いやー、どうしろっていうんだ、マジ」
「もう10人揃ったって勝手に思ったのかもね」
 現も参ったという顔をした。
「誰か、入部する人見つけた?」
 ふと、現(うつつ)が部員に目を向けると、部員同士がお互いに顔を合わせるだけで、誰も手を挙げる者はいなかった。真湖達もクラスの全員に個別に聞いて回ったのだが、すでに部活を決めたという者と、絶対に部活はやらないという者しか残ってはいなかったのだ。
「すみません、いませんでした」
 誰も何も言えないところ、真湖だけがそう返した。そもそもの言い出しっぺとしての責任として。
「そうよね」
 現も色々当たってはくれたのだろう。真湖の言葉に頷くだけだった。
 音楽室に重い空気が漂った。
 その時。扉をノックする音がした。
「はい?」
 また校長が来たのかと、全員が扉に注目した。しかし、扉は開かないまま再度ノックの音が。
「誰?」
 扉に一番近かった栗花落が扉を開けた。そこには、1年生と思わしき女子生徒と、大人の女性が立っていた。
「あの、こちら、合唱部の部室でよろしかったですか?」
 女子生徒に付き添った女性がそう聞いた。
「あの、娘がどうしても合唱部に入りたいって申すものですから」
 母親は大変恐縮そうに何度も何度も頭を下げた。
 中学生にもなって、親同伴で入部希望? と、部員全員の疑問が重なった。
「あ、もしかして、特別……」
 現が途中まで言いかけて止めた。
「はい、娘は特別支援学級なんですが、昔から音楽だけが好きで。みなさんの昨日の校歌を聴いて、どうしても合唱部に入りたいって聞かなくて」
 当の女子生徒は、何も言わずに母親の懐に入って、いやいやの仕草をするだけだった。
 現は、少し戸惑ったような顔をしたが、考え直したかのように、
「もちろん歓迎しますよ。どうぞ、どうぞ。こんにちは。わたしは部長の現です。あなた、お名前は?」
 現にそう問われて、女子生徒は一旦母親の方に顔を埋めてから、少し振り返り、
「き……しょ……さ……くら」
 と答えた。
「きしょさくらさんっていうのかな?」
「吉祥寺櫻(きっちょうじ さくら)っていいます。さくらは旧字の櫻」
 母親が代わりに述べた。
「ちょ、瞳空(みく)」
 栗花落が現を引っ張った。
「おい、まさか、入部させるつもりじゃないだろうな」
 母親には聞こえないように囁き声で言った。
「仕方ないでしょ。1人は1人なんだから」
「だからって、名前ひとつまともに言えないようなの入れて、足出まといになるの見えてるじゃないか」
 二人がごそごそやっていると、
「あの、お邪魔でしたら、お気になさらないで。娘のわがままですから」
 母親が遠慮して、櫻を連れて音楽室を出ようとした時、
「櫻ちゃんっていうの? あたし、煌輝(きらめき)真湖。よろしくね。一緒に合唱しましょ?」
 いつの間にか櫻の前に真湖がいた。母親が引っ張って教室を出て行こうとした櫻が止まった。
「ま…こ…?」
「そう、真湖だよ。嬉しいな、櫻ちゃんみたいな可愛い子と一緒に歌えるなんて」
 真湖は心からそう思った。何故だか分からないが、自分にとって大切な友達に出会えた気がしたのだ。
「ま…こ…ちゃん?」
「そうだよ、真湖だよ。櫻ちゃん」
「おうた、うたっても……いいの?」
「もちろん。だって、合唱部は歌を歌うとこだもん」
「わたし、乃愛琉。合歓(ねむ)乃愛琉。真湖ちゃんの友達。そして、櫻ちゃんの友達だよ。よろしくね」
「の…える。うん。よろしくね!」
「ボク、エンリコ翔。翔って呼んで」
「お、俺、小林一馬。よろな」
「わたし、外園」
 次々と合唱部の皆が櫻に自己紹介を始めた。
「ちょ、ちょっと、みんな一気に紹介したって、覚えられないでしょ」
 現が慌てて、みんなを止めようとした。ところが。
「しょう」
「かずま」
「ほかぞの……せんぱ……」
 と、櫻は次々と紹介していった部員達の名前を復唱し始めた。
「すご」
 それを聞いていた神宮が驚きの声を上げた。
「まこ、あのね。校歌歌おう?」
 全員の名前を復唱したかと思うと、櫻はいきなりそんなことを真湖に言った。
「うん。いいよ。みんなで歌う?」
「まこと歌う」
 櫻は即答した。
「えー、あたしもまだ覚えたばっかりだしなー」
 と、真湖が躊躇っていると、いきなり櫻が歌い出した。
「!」
 それは、さきほどまでのたどたどしい口調で話をしていた本人と同一人物かと疑うほどの流暢な声だった。しかも、優しく、奏でるような発声が正確なメロディラインにのせて発せられていた。
 慌てて真湖もそれに続く。
 入学したての1年生ならば、この校歌を聴いたのは入学式と昨日の新入歓迎会だけの2回だけしかないはず。それを完璧なほどに複製する能力。櫻にはそんな特殊能力が備えついているのだろうか。だとしたら、それはその他の人間としての能力を削って生まれたものなのかも知れない。
 二人のコーラスが終わると、合唱部員全員が拍手した。もちろん真湖もだ。
「櫻ちゃん、すごい」
「ま、こちゃんも」
 二人は手を取り合った。
「ま、こ、ちゃん、お願い、あるの」
 櫻が歌い終わった途端にそう真湖に言った。
「なに? お願いって?」
「友達……も、がっしょうしたい……て」
「え?そうなの?もちろん、櫻ちゃんの友達なら、一緒に入ろうよ」
 櫻のその言葉に、母親が慌てて、
「あの、その子は……その、大丈夫かしら……親御さんもご存知ないみたいで、うちみたいには」
 おろおろした。自分の子は仕方ないにしても、他人の子供まではと思ったのだろう。
「お母さん、大丈夫ですよ。親御さんに説明が必要なら、わたしが説明に行きますから。本人がやりたいっていうなら、やらせてあげた方がいいと思うんです」
 と、説得にかかった。
「そ、そうですか? じゃ、じゃあ……」
 そう言うと、音楽室の扉をまたさらに開いた。すると、そこにまた別の女子生徒が黙って立っていた。
「まなちゃん、おいで」
 櫻の母がそう言うと、櫻の隣に立った。
「御前崎(おまえざき)さんって仰るんですけど。櫻とは小学生の時から一緒だったので、仲は良いんですけど。合唱は……どうか……?」
 自分の子でさえ、お邪魔ではないかと遠慮するくらいだから、友達とは言え、よその子までもとなるとさすがに自分からは言えなかったのだろう。
「大丈夫です。うちの合唱部は来る者拒まずですから」
『拒めずだろ』というツッコミを栗花落は心にしまった。
「いいんですか?」
「はい。こんにちは、御前崎さん、したのお名前は?」
 御前崎は、現の言葉に返事しなかった。じっと現の目を見るだけ。
「まなちゃん」
 代わりに櫻が答える。
「そっかー、まなちゃんか。よろしくね」
 隣で栗花落が頭を抱えていた。いくら部員が足りないからと言って、こういうのはないんじゃないか。そう大声で言いたかったが、それも、現の気持ちを考えると言えない。確かに背に腹は換えられない。にしてもだ。
「おまたせー!」
 とかなんとかやってるところに、元気な声で入り口から如月がやってきた。
「新入生入部希望者連れてきたよ!」
 音楽室内の空気を読むことなく、如月はまた別の新入生を連れて来た。
「お、他にも希望者いたの?」
 如月は、前に立つ櫻と御前崎を見て、そう言った。しかし、その子達がどんな子なのかまで当然知らないわけで。
「おー、じゃ、これで10人目だよー! ほら、入って、入って」
 そう言って、扉に隠れていた生徒を引きずり出した。それは、また女子生徒だった。
「!!!!!」
 それを見て、驚いたのは、真湖と乃愛琉だった。

「灯?」
「灯ちゃん?」

「Nコン!」第13コーラス目「新歓!」

 いよいよ新入生歓迎会の日がやってきた。午前中は授業をやり、午後からの授業の代わりに新入生歓迎会が行われる。そのため、部活動に関係ない2、3年生はすでに下校している。
 にも関わらず、真湖達が音楽室に向かう途中、校内にはかなりの数の2、3年生の姿が見うけられた。
「ずいぶん、2、3年生残ってますね」
 音楽室に入るなり、真湖がそう感想を述べた。
「うちの学校、結構部活動盛んな方だからね。その分、新入生獲得競争も熾烈なのよ」
 現<<うつつ>>がそう説明する。
「そうなんですか、知らなかった……」
 いざそう言われるとなんだか緊張してきた真湖だった。
「真湖ちゃん、大丈夫。あんなに練習したんだし」
 乃愛琉<<のえる>>がそんな真湖を励ました。確かに、先週から始まった練習では、現からかなりしごかれ、真湖も乃愛琉も精根尽き果てた感はあった。
「これだけ練習したんだから、絶対成果あるよね?」
 うんうん、と、乃愛琉が真湖を宥める。そこに、
「みなさん、準備はいいですかネ?」
 と、校長が音楽室に入ってきた。
「わ、校長!」
「校長だ」
「校長先生だ」
 音楽室がわっとざわめいた。
「今日は勝負の日だネ。みんな頑張ってネ。校長としては無理だけど、個人的に応援してるネ。そして、OBとしてもネ」
「校長先生、ありがとうございます。頑張ります」
 現はしっかりと頭を下げて校長にお礼をした。倣うようにして、部員が全員頭を下げた。
「じゃ、舞台の袖でしっかり見させてもらうからネ、みんなの成果をネ」
 校長は手をひらひらさせて、また音楽室の扉から出て行き、向かいの校長室に引っ込んだ。
「え、校長先生って、合唱部のOBだったんですか?」
 そのことは聞かされていなかったらしい、如月と外園が現に聞いた。
「うん、今の教頭と一緒に合唱部だったんだって。あ、ごめん、言ってなかったっけ」
「え、いえ。大丈夫です。じゃあ、それで校長先生、味方になってくれたんですね。それで校歌か。何か思い入れあるのかもですね」
「でも、他の先生方の手前、何もないのに創部ってわけにもいかなかったんで、今回こういう条件がついてきたんだけどね。思い入れがあったから、校歌指定だったんだと思うし」
「新入生10人獲得って言ったら、大変ですもんね」
「ん、まあね」
「味方って言っても、結構高いハードルつきつけられちゃいましたね」
 如月はさらりとそんなことを言い放った。
「で、でも、現先輩なら、できるかも……って、思ってくれたんじゃないかな」
 そんな如月の言葉を外園がフォローした。
「そう言ってくれると、少し気持ちは楽になるよ、ありがとう外園」
 現がそう言うと、外園は少し紅くなって、如月の後ろに隠れるようにした。
 そんなやりとりを見て、今更ながらに、大変な状況だということに気がついた真湖。さらに緊張が高まる。
「まあ、何にもしないで神頼みも良くないし、やれることはやってみよう」
 現は、両手で頬をぱんぱんと叩いた。
「そうだね」
 栗花落<<つゆり>>がそれに同意する。
「じゃ、行こうか」
「はい」
 揃って現に返事が返る。一週間に満たない即席合唱部としては、綺麗なハモりになっていた。

 各部が続々と体育館に入ってくる。1年生で部活をすでに決めている生徒は少ないと見える。ほとんどは先輩たちばかり。向かいに並ぶのは運動部だった。皆、ユニフォームや胴着を来ているので、大体どの部なのかは分かる。野球部に阿修羅の姿が見えたのは真湖にすれば、気持ち的には幸いだった。ふと、阿修羅の目線がこっちを向いた。真湖が小さく手を振ると、阿修羅も相づち程度に頷いた。
「野球部たくさんいるね。あれで2、3年生だけなんだ?」
 その気配に気がついたのか、乃愛琉がそっと真湖に言った。
「そうだね。あんなんでレギュラーとかとれるのかな」
 それでも、隣の一団はサッカー部なのだろう。若干ながらに部員数が勝っているようにも見える。
 そう言えば、教室を出る際に、阿修羅に声を掛けられたのだった。
『校長との勝負、負けんなよ』
 その時のお返しのつもりで、真湖は口パクで、
「あっしゅも負けんなよー」
 と、阿修羅に送ったが、向こうは何だか分からずに、怪訝そうな表情で真湖を見ているだけだった。
「1年生の入場です」
 教頭の合図で、体育館の扉が開いた。体育館に待ちかまえる上級生達は一同に拍手で迎えた。こちらサイドにいる真湖からすると、まるで獲物を狙う狩人の一団の中に自分がいるようで、何とも心地が悪かった。
 一斉に拍手で迎えられ、一年生達は不安げな顔で入場してくる。何が起こったのか分からずキョロキョロする者もいる。中にはまっすぐ前しか向いていない者も若干はいたが、ほとんどは、何事かと言わんばかりであった。
「あ、うちのクラス」
 乃愛琉が目ざとく真湖に教えた。英美<<はなぶさ>>先生を先頭に3組の生徒が入場してきた。見た顔ばかりだ。中には真湖と乃愛琉に気がついて、『なんで、あの子たちあっちにいるの?』とか仲間うちで話をしているのだろう、こちらを指さして話をしている生徒達もいる。灯<<あかり>>も真湖たちに気がついた様子だったが、あくまでもいつも通りの無表情を貫いていた。
「あー、なんか緊張してきた」
 見知った顔を見るとさらに緊張の度合いが高まる。さすがに乃愛琉も緊張を隠せない。
「あ、あれって?」
 真湖は最後に入場してきた一団に目を向けた。
「特別支援学級じゃない? 入学式の時もわたしたちの後ろにいたよ」
「あ、そうなんだ」
 中央小学校にも、支援学級はあったが、各学年ではなく、いくつかの学年がまとめてだったこともあって、行事にクラス単位で参加することは滅多になかったので、真湖も気がつかなかった。車いすの生徒が数名と、明らかに自分たちとは違う生徒がいたが、他はほとんど普通の生徒にしか見えなかった。
「全然気がつかなかったな」
「だって、真湖ちゃん、前しか見てないんだもの」
 乃愛琉が茶化した。
「ボクも緊張してきた。みんな、あそこに上るのかな?」
 翔がそう言って壇上を指さした。最初の部が壇上に上がっていた。最初は運動部の方かららしい。50音順なのだろうか、剣道部が最初だった。その後にサッカー部が控えているのが見える。それに、柔道部、水泳部と続く。
「当然そうでしょ。上にあがんないとみんなに見せられないし」
 と言いつつも、真湖も壇上にあがることを考えただけで緊張した。学校の壇上に上がるのは、卒業式を除けば、小学校の学習発表会以来だけれど、あの場合は観客がPTAだったので、生徒の前でというのは何か感じが違う。しかも、同級生を前にしてだから余計勝手が違うのかも知れない。卒業式に至ってはただ証書を受け取るだけだったので、緊張のしようもなかった。
 なにより、今回は合唱部創部がかかってる大一番なのだ、何がなくても緊張するのは仕方ない。真湖はそう自分に言い聞かせた。
 順々に運動部が紹介を終え、最後に野球部になった。壇上に上がる前に、阿修羅が一瞬だけこちらを見た気がした。2、3年生に混じって立つ阿修羅は上級生に負けず劣らず大きかった。卒業の頃にはクラスでも一番後ろだった。けれど、小学校入学当時は、真湖と同じ背丈だったのに。
 部長の山咲が挨拶した。マイクを使わず人一倍大きい声で挨拶する。体育館全体に広がる声量。確かにこれはすごいものがある。それに合わせて、時折、部員の「オッス」という声が響く。皆良い声をしている。
「この中の何人かでも合唱部入ってくれればいいのにね」
 真湖は、乃愛琉に言っているのか、それとも独り言なのかよく分からないくらいの小さい声で呟いた。山咲も手伝ってはくれると言っても、Nコン前だけだというし、野球部と兼部というのも大変な話ではある。
「阿修羅も入ってくれそうにないしなぁ」
「他に10人集めればいいんだから、ね、がんばろ」
「だね」
 野球部が終わると、文化部が続く。最初は演劇部だった。もちろん演劇部は舞台慣れしていて、颯爽と部員たちは舞台にあがった。事前に台本は決まっていて、練習も重ねたのだろう、それぞれの役割分担もきっちり決まっていて、一つの舞台を見ているかのようだった。真湖は馬鹿のように口をぽっかり開けてそれを眺めていた。
「はい、行くわよ」
 演劇部の紹介が終わる頃、生徒会らしき人達が現に何か声を掛けた。それに合わせるように、現が合唱部の皆を呼んだ。舞台上を邪魔しないようにゆっくりと舞台袖に向かう。真湖は途中一回だけ深呼吸した。
 やがて演劇部の紹介が終わり、演劇部が下手に降りると、いよいよ合唱部の出番だ。
 現は先頭に立って階段を上がる。一番上の段に上ると、一旦振り返って全員の顔を見渡す。それから、うん、と頷いてから舞台に出た。続いて2年生の女子、真湖たち3人、そして男子が順に出る。
 照明がまぶしかった。スポットライトではないので、光量はさほどではない。多分、自分の置かれた立場がそう感じさせたのだろう。その光にも慣れると、真湖の視界に体育館を埋める1年生の姿が浮かんできた。否が応でも緊張は高まる。
 その時、後ろからぐいっと変な感触が。
「!?」
「緊張してるなー?」
 その声は如月だった。如月が、真湖と乃愛琉のおしりをぎゅっとつまんだのだ。
「せ、先輩!」
 二人は揃って振り返る。
「緊張してたら、いい声でないよー。ほら、グランド走っていた時のこと思い出せー」
「わ、分かりました!」
 確かに、二人ともに体中緊張していたのだろう。緊張が一番声に良くないことは何度も現から言われていたのに。それでも、いざとなるとこうなるものなのか。
「二人とも、ちっちゃいおしりでかわいいのー。ほら、諒子ちゃんも」
 如月は隣の外園にも同じようにする。
「ちょっと、友夏ちゃん、わたしは大丈夫だってば」
 そんな二人を見て、真湖と乃愛琉はお互いを見合わせて笑った。ふと緊張の糸がほぐれた瞬間だった。
「次は合唱部……仮合唱部のみなさんです」
 教頭が言い直した。
 紹介された現は、マイクを持って紹介コメントを始めた。
「合唱部は、去年一旦廃部になりましたが、今年有志数名で再び創部を目指して活動を開始しました。まだ11名の小所帯ですが、これからみなさんと共に、楽しい合唱部にしていきたいと思ってます。よろしくお願いします。
 これから、この学校の校歌を歌います。みなさんもこの先イベントごとに歌うことになると思いますので、よくお聞きください」
 現がスタンドにマイクを置くと、スピーカーからもう何度も聞き慣れた伴奏が流れる。

「終わったー!」
 音楽室に戻った途端に栗花落が叫んだ。
「終わったんじゃないでしょ? 始まったの。勝負はこれからだもん」
 新入生歓迎会は無事に終わった。即席合唱部の割には校歌も上手く歌えた。しかし、どんなに上手く歌えても新入生が入ってこないことには何の意味もない。
 最前列の神宮の姿もしっかり新入生(特に女子)には焼き付いたことだろう。これに騙される女子生徒がどれくらいいるだろうか。
「でも、結構こっち見てる人いましたよ。全く興味ないって人も結構いたけど」
 射原悠斗<<いはら ゆうと>>がフォロー気味に言った。双子の悠耶<<ゆうや>>もそれに頷く。
「結果はもう間もなく見えてくると思うけど」
 歓迎会の後は、部活の下見となっていて、興味のある部に新入生が回ることになっている。この後新入生がこの音楽室の扉を叩くことがなければ、敗北が確定することになる。また、数名が来たところで、校長の条件である、新入生10人を越えなければ、同じことだ。
「あ、そう言えば、校長先生の言っていた新入生10人って、あたしたちのこと入るんですかね?」
 真湖が手をぽむと叩いて現に聞いた。入れば、あと7人になる。
「バカね、入らないに決まってるでしょ。世の中そんなに甘くはないわよ」
 現はけんもほろろにそう言った。
「そっかー。じゃあ、乃愛琉とエンリコくんを後にしておけばよかったー」
 後悔先に立たずと、真湖は凹んだ。
「合歓さんと、エンリコくんがいなかったら、わたしが断ってたわよ」
 さらに現が追い打ちをかける。
「ぶちょー」
 真湖がぶーっと顔をふくらませた。
「大丈夫、安心して、絶対10人は来るから。……うん、きっとね」
 現は自分に言い聞かせるかのようにそう言った。
「あたし、客寄せしてきま……」
 いてもたってもいられない真湖は、そう言って、立ち上がろうとした。
 その時扉をノックする音がした。
「あのー。いいですかー?」
 1年生らしき女子が2、3人、扉の間から顔を出した。
「もちろん! 入って、入って」
 最初に飛び出したのは如月だった。3人の1年生を掠うかのように音楽室内に引き寄せた。それに続いて、他の部員達も扉に寄る。皆、顔はにこやかだが、内心穏やかではなかった。
「入部希望?」
 現が優しく迎える。いきなり女子3人とは幸先が良い。神宮作戦当たったか。
「はい。わたしたち、3人共、北小出身なんですけど、昔から歌うの好きで。合唱部があったら入りたいねって言ってて。でも、合唱部廃部になったの聞いてて、残念だなって。でも、あの全校放送聞いて、部活できたら、一緒に入ろうねって言ってたんです」
「は? 全校放送って、あたしの?」
 真湖が慌てて自分を指さした。
「あ、あれ、あなただったの? 煌輝さんだっけ?」
「そうそう、あれ、あたし」
「そっかー。まさか今日1年生が歌ってるなんて思ってなくって。そんなんだったら、もっと前に声かけておくんだったなー」
「いやいや、今でも全然遅くないから。ようこそ、合唱部へ!」
「うん、よろしくね。わたし、1組の小島洋子って言います」
「同じく1組の佐々木緑です」
「2組の伊藤玲です」
「わたしは部長の現です、ようこそ新生合唱部へ」
 現は部長らしく挨拶した。
「すんませーん。1年2組の中島次郎って言います。入部いいですか?」
「同じく2組の田中猛でーす。よろしくお願いしますー」
 続々と入ってくる1年生。迎える部員達は乱舞した。あっという間に5人。目標の半分があっさりと埋まったのだ。
「煌輝さんいる?」
 続いて顔を出したのは、真湖と乃愛琉が見知った顔だった。
「はい?」
「あー、俺、俺。入部いい?」
「えっとー」
 同じクラスの男子だった。名前は確か……
「小林くんだったよね? 入って入って」
 乃愛琉が賢く小林を呼んだ。
「美馬も一緒なんだ。ほら、一緒に入れよ」
「美馬くんも一緒に入ってくれるの? 嬉しい、ありがとう」
 小林は小林一馬と言った。初日の校内放送事件以来、真湖の取り巻きしていた男子生徒の一人だった。美馬は美馬義人といい、小林といつもクラスでもつるむことが多かった。
「小林くんたちが合唱部に興味あるとはねー」
 あの日クラスのみんなに声をかけた時には特に反応しなかった二人だった。今思えば、『応援だけはしてやる』は小林の言だったように思う。
「煌輝さん、今日格好よかったぜ。俺も舞台に立ってみたいなって思ったよ」
「ホント? ありがとう。一緒に頑張ろうね」
 真湖は大きな笑顔で応えた。
「合歓さんも、良かったよ」
 美馬は若干うつむきがちにそう言った。
「そう? ありがとう。これからよろしくね」
 音楽室は、久しぶりに活気を取り戻したかのようだった。それからもしばらく部員達はわいわいと盛り上がり、自己紹介やら、今日の校歌の感想やらを言い合ったりした。

 しかし、新入生の合唱部員が目標の10名にあと3人となったところで、ぱたりと音楽室の扉を叩く者がいなくなった。

2014年10月15日水曜日

「Nコン!」第12コーラス目「校歌!」

 石見沢市立西光中学の校歌は、今は亡き著名作曲家によるものだった。
 地元出身のその作曲家は、この周辺地方が炭坑町として活況を呈し始めた頃に活躍した。とある炭坑主がパトロンとしてこの地元出身の若き才能を目覚めさせたのだ。この学校が開校した昭和22年は、戦後まもなくのことで、徴兵から戻ったばかりの彼に白羽の矢が当たったのである。
 自身、北海道開拓使として入植してきた父を見てきた彼は、その精神を歌詞に込めた。また、戦地に赴いたときの望郷の思いを反映させようとしたのだという。そして、それは、日本の復興、まもなく始まる高度経済成長期に向けたメッセージでもあったのだろう。

 練習の休憩中にふと、現<<うつつ>>が自分が入部した時に先輩から教わった、校歌にまつわる話を真湖たちに簡単に説明した。横では2年生達も興味深そうに聞いていた。去年は正式な部活動ではなかったため、そんな話を先輩から聞く機会はなかったのだろう。
「昭和22年って、何年前?」
「さぁ? 確か、校門のとこに開校67周年って書いてなかった?」
 真湖の疑問に乃愛琉<<のえる>>がすぐに答える。彼らににとっては、昭和という響きは歴史の教科書の一部でしかない。
「そうね、確か67周年って書いてあったわね」
 現が同意する。
「うちはおじいちゃんおばあちゃんからずっとここだったって」
「そっか、乃愛琉んとこって、ずっと石見沢なんだもんね」
「あれ?真湖ちゃんとこもずっと石見沢じゃなかったっけ?」
「あたしはもちろん石見沢生まれだけど、おとうさんもおかあさんも、元々栗川町だったらしいよ。あんまよく分かんないけど、おじいちゃん達の代にこっちに来たって。だから、うちのお父さんもお母さんもこの学校の出身じゃないんだ」
 札幌から転校してきた翔はもちろんのこと、祖父の代でこの町にやってきた真湖には、石見尺の歴史はあまり馴染みのないものだった。父が成人してから石見沢に来たと言っていたような気がするが、あまり詳しくは聞いたことがない。今度機会があったら聞いてみようと思った。
「あとは、あっしゅと灯んとこもそうだよね」
 阿修羅も灯も代々続く農家の子だった。ただ、阿修羅の父が何年か前に亡くなっているため、今は廃業してしまったのだが。
「うちもずっと石見沢だよ」
 双子の射原兄弟が続けた。射原商店は石見沢駅前の老舗商店だというのは、誰もが知っている。今ではセイコーマートの冠がついているが、未だに射原商店と呼ぶ市民も多い。
 如月と外園も同じく頷いて自分たちもずっと地元民だと言った。
「札幌だと、開校100周年って学校も結構あったよ」
「そりゃ、札幌とは歴史の長さが違うからね」
「そんなに違う?」
「だって、札幌って、函館に次いで歴史が長いんでしょ? 小学校修学旅行の時に100年記念塔見に行ったわよ。あれだって、うちのお父さんが生まれた歳にできたんだってよ。そしたら、都合140年位になるじゃない?」
 現がそう言うと。
「いや、100年記念塔は、北海道開拓の100年記念であって、札幌のってわけじゃないよ。それに、石見沢だって、結構歴史あるよ」
 と、遠慮がちに栗花落<<つゆり>>が口を挟んだ。
「うち、元々兵庫らしいんだけど、石見沢に入植したの明治12年頃だっていうから、西暦にして1879年。札幌とはそんなに違わない。今はないけど、二笠までいく幌内鉄道ができたのも1882年だって」
「蒼斗、詳しいのね」
「うん、うち、栗花落家の直系なんで、兵庫県から来た時の家系図とかみんな残ってるんだ。うちのひいじいちゃんがそういうの調べるの好きでさ、何度も兵庫に通ってたらしい。なんでも、元々武家の出だったんだってさ」
「へぇ、意外」
 現がいつもより一オクターブ高い声で感嘆した。何が意外なのかはよく分からないけれど。栗花落が詳しいことがなのか、武家の出身の直系であることがなのか。
「まあ、本州に比べればほんの一瞬だけどね、石見沢の歴史って言っても」
 栗花落はなんとなくニヒルな言い方で締め括った。
 けれど、そういう話を聞くと、その話を聞いていた部員にとっては、校歌に籠められた、フロンティア精神の片鱗みたいなものを感じることができたように思える。短いとは言え、100年以上の歴史は中学生には重い。
「じゃあ、練習再開しましょうか」
 現の一声で練習が再開された。

 乃愛琉にとっての『意外』は神宮だった。見た目はキザだし、なんとも空気を読まないキャラクターはあまり好きにはなれなかったが、確かに現の言う通り歌だけは上手かった。明らかに他の部員より声量はある上、体全体から響かせたかのような深い音色を出す。しかも、音程もしっかりとしていて安定感がある。これを意外と言わず何と言うのか。現が我慢してでも呼んできたという意味がようやく分かった。
 けれど、現も彼のことは好きではないらしい。カレシである栗花落の目の前でコナをかけるような無神経なところや、誰彼構わず女の子と見れば声を掛けるようなタイプは乃愛琉にとっては最も苦手とする男子像だった。
 しかし、一度彼が歌い始めると、なんとも不思議な感覚に陥る。なんだろう、この感じは。乃愛琉はできるだけ歌に集中することにして、あまりそのことを考えないようにしようと努めた。
「あの神宮先輩って、ホント歌うまいね。意外」
 単純な真湖はただ、そうやって驚いた。

 西光中学の校歌は混声二部と混声三部のアレンジがある。普段合唱部では、混声三部に分けるのだが、人数割をすると、翔がソプラノ域にいれたとしても、女子がそれぞれのパートに4人となり、声量のことを考えると、今回の新歓では校内全体合唱用の混声二部にすることにした。何より、昨日までの練習で、1年生3人共に、女子パートしか教えていないこともある。今から真湖をアルトにシフトすることも考えたが、せっかく女子パートで教えたので、途中で混乱することも考えられるので、現はそれを避けた。
「混声二部なんだ? ちょっと物足りないね」
 事情を知らない神宮が余計な口を挟んだが、気にしないことにした。
「まあまあ、上出来じゃない? 初日にしては」
 栗花落も神宮のことは無視して、そう現に耳打ちした。
「まあ、元々去年一緒にやった仲間だしね」
 それになんだかんだ言っても、1年生の3人には数日かけてみっちりやった成果は出てはいた。
「だけど、二部だからであって、三部に分けたらどうだろ」
 現は満足はしていなかった。今回の目的はただ歌うのではなく、新歓において、新入生を勧誘するのが目的なのだ。現はしばらく考えて、意を決したように、
「神宮くん。あのさ、一番前出て歌ってくれないかな?」
「え? ボク? いっつも一番後ろじゃない?」
 現が指名すると、神宮は不思議な顔をした。男子の中で一番の長身であり、一番張りのある声が出るので、セオリーで言うと、一番後ろが適している。しかし……
「あのさー、神宮くんのが一番前の方が、その……目立つじゃない……で、その方が新入生も、入部しようかなぁ……とか思うかなぁ……とか思って……さ」
 現は何だかイヤイヤ、そんな言い方をしたが、それに神宮の目が瞬いた。
「そっか、ボクみたいなスターが前に出た方が勧誘になりやすいってことだね。了解、じゃあ、前で歌うよ」
 こういう時だけ理解の早い神宮だった。現のため息に栗花落が肩を叩いた。
 颯爽と前に出る神宮に、あ、この人そういう自意識はあるんだ、と乃愛琉は変な感想をもった。そんな神宮をよく知っているのであろう、如月もくすりと笑った。

 夕方までかけて練習は続いた。真湖も乃愛琉も、初めての長丁場でクタクタになっていた。途中何度も休憩を挟んだのは慣れていないこの二人がグロッキーになることを避けてのことだったら、さすがに夕方になると二人共に死に体だった。
「じゃあ、今日はおしまい! みんなお疲れ様」
「お疲れ様でしたー!」
 とは言え、他の先輩方も久しぶりの練習ということもあり、かなりバテ気味であることは確かだった。
 ただ一人、神宮だけがケロりとしているのが不思議だった。
「明日って、みんな予定どうなってるかな?」
 現が明日もやる気満々という表情で問いかける。真湖はドキリとした。
「明日は、店の手伝いで。駅前商店街のキャンペーンに参加してるんですよー」
「すみませーん、明日は塾入れちゃっててー」
「明日は親戚遊びに来ることに」
 2年生、3年生は全滅だった。現が1年生3人に目を向けると、
「引越の後片付けがまだ残ってて」
 翔も、申し訳なさそうに断った。
「じゃあ、仕方ないわね。月曜日の放課後ね」
 真湖はちょっとほっとした。現がこんなに練習の虫だとは思ってなかった。
「でも、1年生は自主的に練習しておいてよ。最低50回は自分のパート歌っておいてよ」
 しかし、現もその辺は抜かりはなかった。
「はーい」
 真湖と乃愛琉は渋々返事する。

 下校途中、真湖、乃愛琉、翔が帰宅の途についている時、後ろから如月が真湖と乃愛琉の後ろから抱きついてきた。
「おっつかれー。みんな、そっち方面?」
「き、如月先輩。びっくりした」
「そうです。わたしたち、中央小なんで」
「へー、そうなんだ。じゃあ、一緒に帰ろう?」
「あれ?如月先輩も中央小でしたっけ?」
 同じ学校だった記憶はない。
「わたしは西小よ。ずっと栗花落先輩の後輩ー。これから塾でさー。こっちに塾あんの」
「これから、塾って、タフだなー」
 翔が感心した。さすがの翔でもかなり疲れていた。
「こっちって、駅前のあの大きい建物のですか?」
 真湖にはその塾の心当たりがあった。
「そそ、栄信塾ってやつね」
「あ、そこ、あたしの友達も行ってます。紺上灯<<こんじょう あかり>>って言います」
「こんじょう…こんじょう。おお、今年の一年トップだねぇ。噂は聞いてるよ」
「灯、塾でも一番なんだ、すごいな」
「ちなみに、2年でトップ、このわたしー」
「え。すごいですね!」
「えへへー。まあ、大したことないけどねー。ねーねー、ところでさー、わたしたちって気が合いそうだね。最初会った時から、そんな感じしたんだよね」
「そうですか! あたしもそんな気がしてました!」
「これからもよろしくね!」
「こちらこそ!」
 真湖と如月はキャイキャイ言って、盛り上がった。確かに横から見てても同類のにおいはする。とは言え、学年トップの如月と、低空飛行の真湖では天地ほどの違いはあるが、と乃愛琉は心の中でつっこんだ。
「先輩方もみんないい人で、合唱部うまくいきそうで、嬉しいです!」
「そうねー」
 如月は一瞬空を見上げた。
「そう言えば、あの神宮って、先輩、歌上手いですね」
 そこに、乃愛琉は感心したように言った。
「ああ、神宮……先輩ね。上手だねー。なんか、両親も音楽関係の仕事してるとかで、うちの学校でも有名人だよ。……まあ、いろんな意味で」
 如月は奥歯に物が挟まるような言い方でまた目を逸らした。
「誤解されやすいタイプだから、神宮先輩って」
 真湖も乃愛琉も、なんと返答したらいいのかと躊躇っている間に、
「あ、でも、先輩、誰にでも甘いこと言うから、気をつけた方がいいよ。ホント。なんて言うか、軽いっていうのかな」
 乃愛琉は明らかに見た目通りなんですがとは言えず、
「如月先輩、お詳しいんですね」
 と言うのが関の山。
「あー、わたし、つきあってたことあるんだ、去年。Nコン終わったあと、ほんのちょっとだけだけど」
 意外な告白。今日は意外続きだなと真湖は驚いた。
「あー、今は違うけどね。今はつきあってる人いないんじゃないかなー。あはは」
 如月は両手をブンブン振った。1年生3人の空気を読んで、なんとか誤魔化そうという雰囲気が見え見えだった。
「あ、先輩と言えば、全然違う話ですけど、如月先輩って、『芳田先輩』って知ってます? 『芳田瑞穂先輩』」
「よしだ?」
 乃愛琉の渡した船に乗った如月はあごに人差し指を当てて考えこんだ。
「合唱部だった人?」
「はい、そうです。でも、如月先輩が入学する前に卒業しちゃったみたいなんですけど」
「OGもよく遊びに来てたから、何人かは知ってるけど、よしだ先輩っていう人は知らないなぁ」
「そうですか。すみません」
「ううん。あ、あたしこっちだから、じゃ、また来週ね」
 交差点にさしかかる前に、如月はダッッシュして、信号ギリギリに横断歩道に駆けて行った。
「なんか、賑やかな人だね」
 翔が感想を漏らした。

「乃愛琉、どうして芳田先輩のことを?」
 翔と分かれてから、真湖が聞いた。
「ん、ちょっとね。もしかしたら、知ってるかなって」
「でも、合唱部のアルバム見たら、載ってなかったのって、如月先輩もまだ入学する前だったじゃない?」
「うん、分かってる。知ってるとしたら、現先輩しかいないって。でも、現先輩に直接聞くのって、ちゃんと調べてからの方がいいかなって」
 それに、あのタイミングで聞けば、あの質問内容について如月先輩もいつまでもは覚えていないと思ったからだった。
「まあ、そうか。そうね」
「でも、如月先輩も知らないってことは、違ったのかもよ? 本当に、芳田先輩だったのかな?」
「うん、確かに、そう聞いたもの」
 真湖があの時確かにリーダーから感じ取ったのは、その名前だった。
「まあ、あのことはいいんじゃない? あれから、あの先輩たちも現れないし」
「うん、まあ、そうなんだけど。怖い目にあったのは、真湖ちゃんだし」
「あたしは大丈夫だよ。また今度きたら、キン○マ蹴ってやるんだから!」
「真湖ちゃん、ちょっと!」
 乃愛琉は慌てて、周りを見た。が、ちょうど誰も往来にはいなかったので、安心して苦笑いした。
 二人はいつもの曲がり角でバイバイして別れた。

 新歓まであと4日。

「Nコン!」第11コーラス目「部員!」

 入学式から怒濤の5日間が過ぎ、初めての土曜日。真湖は布団の中で深いまどろみの中にいた。
「まーこちゃーん!」
 夢か現か曖昧な境界線の中で、真湖の名前を呼ぶ声がしたような気がした。何とか返事をしようとするのだけれど、眠気には勝てなかった。元々朝の弱い真湖。昨日の夜にしっかりと土曜日は昼まで寝るんだ! と心に決め、目覚ましのベルもスイッチを切り、準備万端だった。閉じた瞼から窓の外の光を何となくは感じているような気はした。多分朝なのだろう。でも、まだ昼ではないなと勝手に予想。そう、今日は昼まで寝ると決めたのだから、初心貫徹、寝ると決めたら寝るのだ!
「まーこちゃーん!」
 ああ、この呼び方は、きっと、乃愛琉<<のえる>>だな。とは心の中で思いながらも、惰眠を貪る欲求には勝てなかった。だって、あの現<<うつつ>>先輩のシゴキを耐え、5日間を乗り越えたんだから。まだ腹筋がジジンする。きっと筋肉痛よね。足も何だかダルい気もするし。だから、今日は静養するんだから。そう、これは明日のため、Nコン出場のためなんだから。などなど、とにかく寝ていることを正当化する理由をあれこれ描いた。
 と、ドアのノックする音がして、乃愛琉の甘い声に変わって、母の厳しい声が響いた。
「まこー! 乃愛琉ちゃん、さっきから呼んでるでしょ! 早く起きなさい!」
「んー。もうちょっと寝かせてって、乃愛琉に言ってー」
 布団にくるまったまま真湖は答えた。乃愛琉も乃愛琉よね、何も土曜日のこんな早い時間に呼びに来なくてもいいのに。と、今度は乃愛琉に逆恨みだった。
「学校行くんでしょ? 乃愛琉ちゃん、制服着て来てわよ」
「え?」
 真湖は、血の気の引く音を聞いた。
「あ、あれ?中学って、土曜日、学校あるんだっけ?」
 がばっと、布団から起き上がって、ドアの向こうの母に聞いた。
「知らないわよ。あんた、学校で時間割もらってきてないの?」
 慌てて、真湖はベッドの上から勉強机に覆い被さるように飛びついた。学校に持って行っている鞄が載っていた。鞄からわさわさと学校のプリント取り出す。
「時間割、時間割」
 バサバサとプリントを投げながら、時間割を探す。あった。月曜日から……金曜日までの時間割しかない。次は、来週の月曜日の予定だ。月曜日は、朝からレクリエーションで……。
「あれ?」
 何度読んでも、今日は授業はない。別のプリントを見ても、土曜日日曜日は休みとはっきり書いてある。
「おかーさーん、今日って土曜日だよねー?」
「土曜日よ。とにかく、乃愛琉ちゃん、玄関先に待たせるのも悪いから、あがってもらうわよ」
「あー、うん。あ、うん」
 低血圧の頭に一気に血が上ったせいで、ぐわんぐわんしている脳髄のまま返事する。そのまま、しばらくぼーっとする真湖。
「おじゃましまーす」
 と、玄関先で乃愛琉の声がする。階段を上る音がなんとなくして、とんとんと、優しいノック。さっきの母のとは全然違う。
「まこちゃん、起きた?」
 なんとなく、控えめな乃愛琉の声。
「あー、うん。起きた。入っていいよ」
 明らかに寝起きの声で真湖が返答すると、乃愛琉がドアを開けて部屋に入ってきた。確かに制服を着ている。対して、ベッドから机に半分寄っかかったままの真湖はパジャマのまま。頭は寝癖で大変なことになっている。
「あれー?乃愛琉、なんで制服着てんの?」
「え?だって、学校行くなら、一応、制服着た方がいいんじゃない? 一応、ジャージは持ってるけど。ジャージのままの方が良かったかな?」
 ジャージの入っていると思われる大きめのポーチを指さしながら乃愛琉は遠慮がちに言った。
「え、だって、今日、学校休みだよね?」
 真湖は、手に取った時間割を乃愛琉に差し出した。
「え、うん、学校は休みだよ」
「じゃ、なんで、制服着てんの? なんで学校行くの?」
 惰眠を邪魔された恨み節も込みで。
「え? だって、合唱部の練習でしょ?」
「え?」
 真湖の目がまん丸に見開いた。


「すみませーん!遅くなりました!」
 真湖と乃愛琉が音楽室に飛び込んで来た時、そこには、現だけではなく、5、6人の姿があった。もちろん、エンリコ翔も先に来てにいた。
「おーそーい!」
 現の喝が入る。
「ご、ごめんなさい。あの、ちょっといろいろありまして…」
 いろいろというのは、つまり、真湖がすっかり今日の練習を忘れていたという話なのだが。確かに、別れ際には、翌日の練習の話はなかった。けれど、練習途中に、真湖が翔平のウケウリで「合唱部は毎日練習」みたいなことを言ったので、現が買った喧嘩のように、土曜日の練習を決めたのだ。それを、真湖に何度も念押ししたつもりでいたのが、真湖の頭の中には残ってはいなかった。
 乃愛琉が苦笑いでそんな真湖に連れ添った。
「あ、あれ? みんな…さん、どうしたんですか?」
 揃った顔に、真湖が改めて聞く。中には、見た顔が揃っている。
「そろそろ全体練習も始めなきゃだしね。昨日夜になってから招集かけたから、全員は揃ってないけど、まあ、主力選手は揃ったってことかしらね」
 そう言われて、改めて、揃った面子に目を向けると、現のカレシである、栗花落蒼斗<<つゆり ひろと>>、入学式の翌日に真湖が声を掛けに行った、2年生の如月友夏<<きさらぎ ともか>>、射原 悠斗・悠耶<<いはら ゆうと・ゆうや>>の双子の姿を確認した。如月の横に立つメガネの女子生徒は、外園諒子<<ほかぞの りょうこ>>なのだろう。如月と外園は仲がいいと、現からのイメージが思い出される。あと、翔と栗花落の他に男子生徒が一人。真湖は見たことはないような気がした。
「あなたたちの練習もとりあえずは及第点ってところだし、せっかく土曜日に練習するなら、全体練習にいい機会かなと思ってさ」
 実のところ、現は1年生4人の練習結果には満足はしてはいなかった。けれど、残り時間も僅かであるところから、真湖の「毎日練習」に触発されて、急遽昨日の夜招集をかけたという顛末だった。1年生の練習結果が彼女たちのせいなのか、それより自分の指導のせいなのかが自分でも分からないのがなんともモヤモヤしているということを栗花落に相談したところ、
「じゃあ、みんな巻き込んじゃえばいいじゃん」
 という、彼の言葉が最後の背中押しになったことも確かだった。
「うわぁ、なんか、部活って感じになってきましたね!」
 そんな気持ちも露知らず、真湖は一人はしゃいでいた。
「だね。頑張ろうね!」
 そんな真湖を温かく見守ろうとする翔。
「あんたねぇ……」
 呆れかける現に、
「まあまあ」
 と、宥める栗花落。
「じゃあ、まあ、練習始める前に、自己紹介といきますか。わたしと蒼斗はどっちも知ってるから、2年生からいきましょうか」
 そんなやりとりもここ数日で慣れっこになってしまった現はすぐに切り替えて、みんなに声をかけた。
「じゃあ、わたしから」
 と最初に立候補したのは、あの元気な感じの2年生。乃愛琉が、真湖に似てる感触を持った人だった。
「わたしは、如月友夏<<きさらぎ ともか>>。パートはアルト。好きな合唱曲は『fight』。歌うの大好き。去年は真っ先に立候補して、Nコン出場しました。今年もそのつもりだったんだけど、真湖ちゃんからお誘いいただいたんで、是非合唱部ができればいいなと思いました。まる」
 如月は最後にVサインを決めた。元々目立ちたがり屋なのだろか、ジェスチャーとかも交えて大仰に自己紹介を終えた姿を見て、乃愛琉は自分の初見を改めた。真湖とはまた違う快活さ。ある意味空回りしやすそうに思えた。
「じゃあ、次、諒子ちゃんね」
 そう言って、如月は隣の眼鏡の女子の背中を押した。
「あ、あの、外園諒子<<ほかぞの りょうこ>>です。よろしくお願いします。……あ、あの、パートはアルトです」
「諒子ちゃんは、わたしと小学校からずっと一緒なのよね。よろしくね」
 と、手短に済ませた外園に如月が補足した。快活な如月と内気な外園の組み合わせは、真湖と乃愛琉の関係を彷彿とさせていたが、一方的に走り回る真湖に比べて、外園をグイグイ引っ張っていこうとする如月は若干強引さも感じられた。
「じゃあ、次、俺たち?」
 双子が口を揃えて言った。セコマの二人だった。
「いつもお世話になっております、石見沢駅前、セイコーマート、射原商店でおなじみ、射原悠斗<<いはら ゆうと>>と」
「悠耶<<ゆうや>>です。パートは共にアルト。好きな合唱曲はってと…」
「『エール』かな」
「俺は『虹』かな」
 ばっちりのタイミングで自己紹介する二人。それでも、好きな合唱曲が異なるところあたり、それぞれの個性も垣間見える。
「あと、2年生の男子、もう一人いるんだけど、今日は家の手伝いで来られないって。保家寿<<ほや さとし>>くんね。パートはテナー」
 現が不在者の紹介をする。保家と言えば、勧誘に行った際に、実家の農業を手伝う時は参加できないと言っていたなと乃愛琉は思い出した。
「あとは、っと、3年生。わたしと蒼斗の他にもう一人。どうぞ」
 現が、真湖と乃愛琉が見たことのない男子生徒に手を出して、自己紹介を促した。
「神宮知毅<<じんぐう ともき>>。パートはバス。合唱は去年も助っ人として参加したんだけど、今年も手伝ってやらないわけでもない。現くんの頼みとあれば、もちろんね」
 そう言って、神宮は現にウインクを送った。それに栗花落があからさまに舌打ちした。現は見ないふりをしているのかそれとも気がつかないのか、
「じゃ、3年生は以上ね」
 と、上級生の自己紹介を締めた。
「ね、あの神宮って先輩、なんかキザだね……」
 珍しく、乃愛琉が真湖に耳打ちした。
「キザって……?」
 キザの意味がよく分からない真湖だったが、真湖の中でのイメージとしては、どちらかというと、道化っぽいイメージだったので、キザとはそういう意味なのかと思った。
「じゃあ、1年生ね。言い出しっぺの煌輝さんからいく?」
「はーい!」
 寝癖がまだ若干残ったポニーテールを揺らしながら、真湖が手を挙げた。
「煌輝真湖<<きらめき まこ>>です、よろしくお願いします。パートはよくわかんないですけど、多分ソプラノかな。歌を歌うのは大好きです。好きな合唱曲は『大地讃頌』です。Nコン優勝目指して頑張りたいと思います!よろしくお願いします!」
 Nコン優勝のところで、若干苦笑のようなものが聞こえた気もしたが、真湖は気にしなかった。
 間を置かずに乃愛琉も続ける。
「わたしは合歓<<ねむ>>乃愛琉です。真湖ちゃんとは小学生からずっと一緒の幼なじみです。小さい頃からピアノをやってることもあって、音楽は大好きです。パートはアルトらしいです。好きな合唱曲は『世界がひとつになるまで』です」
「忍たま」
 と、茶化すような、吹き出す男子の声が聞こえた。
「よろしくお願いします」
 乃愛琉は一瞬戸惑ったが、間を置いて挨拶を終えた。
「じゃ、次、ボクね」
 間髪入れずに翔が口をだす。
「塩利己 翔<<えんりこ しょう>>です。よろしく。パートは、ボーイソプラノって言うんだそうです」
 おお、という小さいどよめきのようなものが起こった。
「まだ声変わりしてないんです。声変わりしたら、多分テナーかな。んで、好きな合唱曲は『流浪の民』です」
「渋」
 また、茶化し声がする。
「神宮くん、しっ」
 現が制止する。さっきからのは全て神宮の声らしいことは分かった。
「札幌から転校してきたので、石見沢のことはよく分かりませんが、よろしくお願いします」
 翔は気にする様子もなく、自己紹介を終えた。
「んじゃ、まあ、まずはこの10人と、と、あと保谷くん入れて11人で合唱部始動ってことで、みんなよろしくね」
「よろしくお願いします」
 合唱よろしく、皆の声が揃った。

「ねーねー。エンリコくんって、ハーフなの?」
 練習開始前、休憩時間に如月が翔に声を掛けてきた。
「そうですよ」
 翔はいつも通りに微笑みながらそれに答える。
「へー。何人なの?お父さん? お母さん?」
「パパーがイタリア人。ママーは日本人ですよ」
「へー。イタリア人なんだー。それで、エンリコっていうの? すごい、インターナショナルって感じねー」
 と、翔と如月が盛り上がっている時、神宮が乃愛琉のところにやって来た。ちょうどその時、乃愛琉は真湖の寝癖を直すために、真湖を座らせて、髪を梳いてポニーテールをし直しているところだった。
「合歓さんって言うんだ?」
「はい? そうですけど」
 乃愛琉は微笑みで返した後、すぐに真湖に向かった。できるだけ先輩に対して失礼にならない程度の応対だった。第一印象が最悪だったのと、さっきの茶化しが乃愛琉にそうさせた。
「合歓さんって、かわいいね。あ、煌輝さんもだけど」
 なんともとってつけたような感想に、乃愛琉も真湖も何と言っていいものか分からず。二人が黙っていると、所在なげに神宮が付け加えた。
「君たちが最初に言い出したんだって? 合唱部作るの?」
 入学式の時の全校放送のことを知らないのだろうか。昨日今日初めて聞いたような言い方だった。
「はあ、真湖ちゃんが……ですけど」
「君たちがどうしてもっていうなら、ボクも協力するからね。いつでも言ってくれたま…」
「はいはい、練習始めるわよー。全員グランド5周ね!」
 神宮の言葉を遮るかのように現がみんなに声を掛けた。はーい、という返事と共に、ぞろぞろと音楽室を出て行く。
「あいつね、あんまり相手にしなくていいからね。誰にでも声掛けるんだわ」
 教室を出ようとした真湖と乃愛琉の後ろから現がそっと耳うちした。
「でも、ああいう奴だけど、歌だけは上手いんだわ。あんまり声はかけたくはなかったんだけど、まあ、この際だから、背に腹は代えられないし、仕方ないわね」
 たった11人で始まった合唱部。そんな中にも不安要素を入れなければならない事情を乃愛琉は感じ取った。
「お疲れ様です」
 現は、乃愛琉の慰労の言葉に、二人の肩をぽんぽんと叩いて応えてみせた。
 なんとも前途多難な旅立ちだが、とにかく確実な一歩は踏み出せていると、実感をした乃愛琉だった。

2014年10月5日日曜日

「Nコン!」第10コーラス目「始動!」

読むための所要時間:約5分

 翌日の放課後から1年生3名の特訓が本格的に始まった。真湖たちが集って音楽室に入ると、すでにジャージに着替えた現がいた。
「夕べ腹式呼吸の練習はちゃんとやった?」
 開口一番、現<<うつつ>>は昨日の復習の確認をする。
「やりましたー。もう腹筋が痛いですー」
 まだ制服のままの3人は声を揃える。
「すぐに慣れるわよ。それに、その程度で根をあげるようじゃ、全国大会どころか、地区大会だって出られないわよ」
「根はあげません!」
 真湖が即答で返す。それを見て、現も思わず笑みが浮かぶ。ここ数日で真湖の性格がだいぶんと分かってきたのだろう。
「じゃあ、さっさとジャージに着替えて。まずは、グランド5周走るからね」
 両手を腰に当てた現が仁王立ちでそう言った。
「え?走るんですか?」
「当然よ。合唱はね、体力が勝負なんですからね! グランド10周終わったら、腹筋100回……といいたいところだけど、今日は初めてだから、できるだけでいいわ。最低10回くらいはできるわよね?」
「腹筋100回ですかー?」
 思わぬ練習メニューに、真湖たちは目を回した。文化系の部活だと思っていた合唱部が、いきなり初日からグランド5周から始まるメニューを差し出されたのである。
「合唱部を文化部だと思ってもらったら、困るわ。歴とした運動部なんですからね!」
 これは、現が入部した時に最初に先輩から教わったことだった。当時はちょうど翔平たちOBが築き上げた伝統がまだ残っていた頃で、部員たちは真剣に全国 大会を目指して練習に励んでいた頃だった。それが、翔平たちが卒業した後に、練習の厳しさから一人辞め、二人辞め、そして新入部員も集まらず、廃部に至っ たのだ。辞めていった部員たちは、今の真湖たちと同じように、まさか合唱部の練習がそんなにも厳しくあるものと思わなかったのだろう。何より、翌年春に亡 くなった三越先生のいなくなった穴は大きかったのである。
 そんな回想をしながら、現は真湖たち女子を音楽準備室に呼び、そこで着替えをさせた。残る翔はそのまま音楽室で着替えを始めた。

「ところで、あの、野球部の子って、仲いいのね?」
 真湖たちが着替えしているところに、突然現が聞いた。
「あっしゅですか?」
 真湖の手がぴたりと止まったのを現は見逃さなかった。
「剣藤くんって言ったっけ?あっしゅって呼ばれてるの? 煌輝さんとは?」
 現は曖昧な聞き方をしてきた。現の意図を計りきれなくて真湖が言葉にするのを躊躇った。乃愛琉が代わりに答えた。
「幼なじみです。わたしたち、小1からずっと一緒のクラスで。煌輝さんのお隣さんなんです、あっしゅくん」
「へぇそうなんだ。中央小だっけ?」
「はい、そうです」
「じゃあ、近所なんだね。いいなぁ。わたし、元北小だから、通うの遠くてね」
 乃愛琉と現のやりとりを黙って聞いていて、真湖は少し安堵した。現の質問に対して変な勘ぐりをしてしまったのだと、自分に思いこませようとしていた。女 子としては恋愛に奥手気味の真湖だが、入学以来、翔の「好き好き攻撃」のおかげで、かえって阿修羅のことが気になり始めていた矢先だったからだ。
「栗花落<<つゆり>>先輩も北小なんですか?」
 すかさず乃愛琉が現のカレシを名指しした。恋愛ネタは乃愛琉のごちそうである。乃愛琉が話題を変えてくれたので、真湖はほっとした。
「蒼斗<<ひろと>>は西小だったみたいよ」
「じゃあ、いつからカレシなんですか?」
「んと、去年のクリスマス後だったかな」
「どちらから告白したんですか?」
「どっちだったかなぁ。よく覚えてないなぁ」
「じゃあ、相思相愛だったってことですね! いいなぁ!」
 ずけずけと聞く乃愛琉とあっけらかんと答える現に、真湖は心中タジタジだった。
「ほら、もう良いでしょ、制服そこ置いて。行くわよ」
 さすがの現も頬を染めて、ちょっと大声になった。実のところ、現と栗花落の付き合い始めたきっかけというのは、曖昧で「よく覚えてない」というのも嘘で はなかった。なんとなくどちらからともなく、そんな感じになったというのが正直なところで。相思相愛と言われるとかなりくすぐったい感覚を覚えた。
「はーい」
 恋バナを聞けて満足げの乃愛琉と、逆に恋バナから解放された真湖が声を揃えた。
「エンリコくん、着替え終わった?」
 音楽室から、「とっくに着替え終わってますよ」との翔の返事があると、現は扉を開き、3人で音楽室戻った。
「さて、行きますか!」
 現は照れ隠しとも取れる空元気っぽい、大きな声を上げた。意外にかわいいところがあるんだなと、乃愛琉は内心思った。初対面の印象は冷たいというか、 「クールビューティ」のイメージだったが、つきあってみると、案外中身はサバサバしていて、後輩の面倒見が良い。栗花落が何故カレシなのかが、少し分かっ たような気がした。このカップルは現でもっている、そう思うのだった。
「ね、何話してたの?」
 音楽室を出ると、翔がこっそりと真湖に聞いてきた。
「べ、別に。大した話してないよ」
「え。だって、結構かかってたじゃん。ボク、ずいぶん待ったんだよ」
「ふ、普通に、世間話してただけだよー」
「ふーん。そうなんだ」
 翔は、頭の後ろに両手を回して、いかにも納得してませんという顔つきをしたが、まーいいかと呟いてそれ以上は追求はしなかった。
 真湖にとっては、さっきの話を要約するほどの経験値を持っていなかったので、それ以上問われても返答に困るだけだった。あっさりと諦めてくれる翔がありがたかった。
(あっしゅだったら、しつこいくらいに聞いてくるんだろうなぁ…)
 思わず阿修羅と比較してしまう。そんな妄想を、真湖は頭をブンブンと振って忘れようとした。そんな姿を目の端でちょっとだけ不思議そうに見る翔だった。

「そう言えば、あなたたち、好きな歌とかある?いわゆる合唱曲じゃなくって。歌謡曲でも、ボカロ曲でも、アニソンでもいいけど」
 玄関で靴を履き替えた後、グランドの手前で準備体操をしながら、現が思いがけないことを聞いてきた。真湖たちも、合わせて体をほぐしながら聞いていた。
「好きな…曲ですか?」
 合唱曲ではなく、との条件付きだと、すぐには出なかったが、
「IKB48の曲なら、大体好きですけど」
 と、乃愛琉が少し控えめに言うと、
「IKB48なら、わたしも知ってるー」
 真湖も合わせた。
「IKB48って、何?」
 ところが、翔が目を点にさせながら、そう聞いた。
「IKB48知らないの? 今や国民的アイドルの頂点と言われてるんだよ?」
「ああ、ごめん、ボク、テレビとか見ないんだよね」
 翔は頭を搔きながら苦笑いした。
 今ドキ、ゲーム機も持っていない、音楽プレーヤも持ってない小学生はほとんど稀だった。しかも、翔は田舎出身ではなく、ここよりずっと都会の札幌から来 たのだから、さらにテレビも観ないとなると、家にいる間何をして遊んでいるのかと、3人はさらに不思議に思った。けれど、翔の屈託のない笑顔を見ると、そ こはつっこんでいいところなのかどうか、3人共に躊躇った。
「あ、ああ…そうなんだぁ……」
 と、現が相づちを打つのが関の山。
「あ、じゃあ、この曲は知ってる?」
 乃愛琉は、IKB48のある曲を口ずさんだ。それは、昔ヨーロッパで流行った曲のカバーだと言われている曲で、一昨年のレコード大賞でも、IKB48が 受賞曲として歌った曲だった。翔の父親がイタリアの人だと聞いていたのと、テレビは観ていなくても、街角やスーパーでもよくかかっていたこともあるので、 もしかしたら思い、選曲してみた。
「あ、なんか聞いたことあるかも」
 翔が反応したのを聞いて、乃愛琉はさらに歌うのを続けた。サビの部分に入ると翔も何となく口ずさみ始めた。
「よし、じゃあ、その曲でいこう!」
 現が指を鳴らした。
「この曲がどうしたんですか?」
 真湖がこれからグランドを走ろうというのに、どういうつながりがあるんだろうと訝しんだ。
「その曲を歌いながら走るのよ」
「え?」
 当然のように答える現に、3人は驚きの声を上げた。
「好きな歌を歌いながら走るのは、楽しいわよ!」
 これも三越先生の受け売りだった。もちろん高齢だった三越先生が生徒と一緒に走ることはなかったが、どうせ走るなら楽しい方が良いだろうと、昔から続け てきた指導方法だったらしい。現も最初は周りに珍しがられるのがイヤだったが、周りも慣れてくると、誰も気にしなくなっていた。確かに何もしないでただ走 るよりかは楽だった。
「じゃ、行きましょう。合歓<<ねむ>>さんが歌い出しお願い。で、みんなで一緒に歌いながら走るわよ。サンハイ!」
 4人は、現を先頭に走り出した。現のペースはかなり遅いものだった。言われた通り、乃愛琉はさっきの曲を歌い出し、真湖と翔が続いたが、先頭を走る現にさえ聞こえないくらいの小さな声だった。
「聞こえない! もっと大きく!」
 現は振り返って、乃愛琉に向かって叫んだ。さすがに経験者だけあって、声が響く。グランドで練習中の他の部員達の数名がこちらを振り返った。
「あ、はい…」
 そうは言われても、やはり、周りの目が気になる乃愛琉。なかなか大きな声が出ない。
(まあ、仕方ないか。わたしも最初はこんなんだったしな)
 とは、思いつつ、一応先輩、いや、臨時ではあるにしても部長なのだから、きちんと部員達には指導しなければならない。
「はい、もっと大きく!」
 自らも歌いながら走る。そして、言われれば言われるほどに、乃愛琉の声は小さくなっていった。
 その時、
「YA YA YA YA! 恋の波打ちぎわに~!」
 翔がいきなり大声を上げて歌い出した。思わず現も振り返るくらいだった。時折、英語なのかイタリア語なのかよく分からない歌詞も交えて。確かに曲は合ってるが、もしかしたらカバー曲の元曲なのかも知れない。
「Hey Hey Hey Hey!」
 それに続くように、真湖が大声を張り上げた。ちょとハチャメチャにも聞こえるアイドル曲が、二人のデュエット曲かのように、グランドいっぱいに広がった。
 乃愛琉がびっくりした顔で翔と真湖を見た。そして、笑顔でそれに続いて一緒に歌い始めた。負けじと現も続く。声量では3人個々には現には全く敵わないが、3人寄ればなんとかで、彼らの声はグランドの端から端まで響き渡った。

「何やってんだ、あれ?」
 外野で球拾いしていた阿修羅が何事かと、合唱部4人がグランドを走っているのを眺めていた。
「ああ、懐かしいな。現、あれ始めたんだ」
 同じく外野で柔軟体操をしていた主将の山咲が阿修羅に声をかけた。
「1年の頃、合唱部毎日ああやって走ってたんだ。名物だったぜ。なんでも、ああやって走って、声量をつけるんだとさ」
「はぁ、そうなんすか」
 阿修羅からみると、ただはしゃいで走っているようにしか見えなかったが。
「ほら、球きたぞ」
「はい!」
 山咲に言われて阿修羅は慌てて飛んできたボールに向かって走った。

「ね? 楽しかったでしょ?」
 5周を走り終え、現が3人に聞いた。さすがに運動部とは違ってスローペースではあったが、すでに3人の息は切れ上がっていた。
「いや、たしかに……思ったほどは苦しくはなかったですけど……なんか、恥ずかしかったです」
 最初に答えたのは、真湖だった。元々活発な方の真湖は体育の比較的得意な方で、この程度のペースであれば、ついていけないこともなかった。
「あれもね、実は、舞台の上であがらないようにって意味もあるみたいよ」
 三井先生直々ではないが、先輩の一人から聞かされたことである。確かに、毎日この練習をしていると、ある意味、羞恥心が緩和されるという感じはした。
「これ、毎日やるからね」
「マジですか」
 翔ががっくりと肩を落とした。走ることに疲れたというより、この先、どれだけの流行曲を覚えなければならないのかと、ちょっと違う方向でのがっかりさだったのだが。

 それから、揃って音楽室に戻り、腹筋数回を経て、校歌の練習を始める。昨日渡された曲データはすでに3人ともに聞いていて、さらりとだが、合わせること はできた。もちろん全員が女子パート。翔がソプラノだったのは意外であったが、現が思った通り、練習指導はしやすかった。
 そして、現が感心したのは、経験がほとんどない真湖と乃愛琉がなかなか筋のあることだった。元々歌の巧い乃愛琉は幼い頃からピアノを習っていたこともあ り、音感はほぼパーフェクトだった。真湖も、性格的に声を出すことにあまり躊躇がない。うまく指導すれば、二人ともかなりいいところまでいきそうだと、現 は手応えを感じていた。しっかりとした練習さえすれば、2年後には、今の自分を遙かに超える実力を出すこともありえないことではない。いや、むしろ、そう でなければ、Nコン全国なんて夢のまた夢なのだ。
 一方、翔の方はお世辞にも上手とは言えないものの、ハーフとして親から受け継いだものなのか、多少日本人離れした声を持っていた。体の中で音を反響させることができている。これをうまく上達させるといい声が出そうだ、という感触があった。

「はい、今日はこれでおしまい!」
 現のかけ声に合わせるかのように、3人はその場にへたり込んだ。
「おつかれさまでしたー」
 現の指導が巧いのか、3人共に声を枯らすようなことはなかったが、グランド5周に、腹筋運動、初めての校歌練習と、緊張もあったのか、3者3様に疲労を感じていた。ただ、イヤな感じの疲れではなかった。今晩はぐっすり眠れそうだな、と真湖は思った。

(でも、あまりゆっくりもしてられない)
 そんな3人を見ながら、新入生の勧誘会まであと5日に迫っているのだと、現は焦りを感じながらも、この先の合唱部の可能性に期待を持った練習初日であった。